昨年の10月に小豆島を旅行した。その時に、いつかは実現しようと思っていた計画をついに実行に移した。それは、木下恵介監督の『二十四の瞳』の中で高峰秀子が演じる大石先生が自転車で自宅から学校(岬の文教場)まで通うルートを実際に走ってみることだった。映画の中で大石先生の言う「往復四里」「自転車で来ても50分かかる」距離とは、いったいどれくらいの厳しさなのか実際に走ってみたかったのだ。
すでにあちこちの観光地に持ち込んでボロボロになってしまった折畳み自転車 Bianchi Fretta Monocoque を小豆島に持って行き、まずは大石先生が住んでいたとされる家があった「竹生(たこう)の一本松」に向かった。
壺井栄の原作では「岬の村から見る一本松は盆栽の木のように小さく見えた」と書かれてある「竹生の一本松」(地図の中の「C」)は、それではさすがにフレームに収まる画としては弱いと木下恵介は考えたのか、映画の中ではちょうどそのあたりに白い煙をたなびかせる煙突が一本立っていて、「岬の文教場」(「B」)からも海を挟んで望むことができる設定になっていた。
小豆島にはじめて降り立った時に、まずはじめに感じたのはその独特な匂いだった。最初はそれが何の匂いなのかはさっぱりわからなかったけど、自転車を走らせていくうちにだんだんとわかってきた。一つは「オリーブ」で、もう一つは「醤油」だった。「オリーブ」については、小豆島が「オリーブ」の産地であると言う知識は何となくあった。でも、「醤油」の産地である知識はまったくなかった。小豆島には黒い板塀の「醤油」工場があちこちにあって、あたりには「醤油」の匂いが充満していた。そして、今はもう使われていないのか、工場の煙突も目立つ。もしかすると木下恵介は、この「醤油」工場の煙突をイメージして、大石先生の家の近くに煙突が立っている設定にしたのかもしれない。その煙突を目指して、赴任したばかりの大石先生をケガさせてしまった子供たちは「岬の文教場」から8kmもの距離を歩くことになるのだ。
「竹生の一本松」から国道436号に出て、大石先生の通勤ルートを東へと進んでいく。この走り始めの海岸線のコースは起伏もまったくなく、右手に海を見ながらのルートは通勤経路としてはおそらく最高のものだ。その海岸沿いをしばらく行くと、「日方海岸」(「D」)に着く。ケガをした大石先生を見舞いに来た子供たちと一緒に記念写真を撮る海岸だ。
この写真は映画の中では重要な小道具として機能していて、今見てもそれぞれの子供のエピソードを思い出すことができるほどだ。その中でも「松江(後段右から三番目)」「コトエ(後段左から二番目)」「富士子(後段右から四番目)」のことが忘れられない。奉公に出された「松江」は映画の最後で大石先生と同窓会で再会することができる。寝たきりの「コトエ」は残念ながら肺病で死んでしまう。そして、まるで夜逃げをするように村を去っていった没落した庄屋の娘「富士子」のことは何も語られないままで映画は終わってしまう。「富士子」のその後はどうなったのだろう? 結果が示される二人に対して、結果の示されない「富士子」は映画を見ている者へ委ねられたままだ。
「日方海岸」からさらに先に進んで、湾を回り込むあたりに「岬の文教場」の本校(「E」)がある。映画の中で岬に住む子供たちは1年生から4年生までが「岬の文教場」で学んで、5年生からは本校で学ぶ設定になっている。足をケガをした大石先生は「岬の文教場」に通えなくなって本校に転勤し、1年生の教え子たちとは5年生になるまで会えなくなってしまう。しかし、実際に走ってみると、本校までも充分に距離がある。「岬の文教場」まで通えなくなった理由が足のケガだとすると本校へも通えないとは思うけど、小説の設定では「岬の文教場」から本校までが5kmある設定なので、本校はもうちょっと大石先生の家の近くにあったものと想像することにする。
本校の先の海岸沿いを進むと、ちょうど入江のようになっていて、そこを回り込むと子供たちが落とし穴を作って大石先生をケガさせた海岸(「F」)に出る。砂浜に小さな地蔵がたくさん並んでいるのが印象的な海岸で、そこは小豆島八十八箇所の4番霊場「古江庵」だそうだ。でも、その小さな地蔵が並んでいる砂浜は、映画の中では「岬の文教場」のすぐ近くの裏手にあるように見えてしまう。まあ、映画のロケ地と実際のストーリー上の位置関係とはこんなものだ。
「古江庵」から岬の外周を回って最終目的地の「岬の文教場」まで進む。このあたりの道のアップダウンはとても激しい。大石先生は本当にこのような厳しいルートを毎日走っていたんだろうか? とすれば、素晴らしい脚力だ。さぞかし鍛えられた太腿になっていたことだろう。なんてことを考えながら必死になって走ってやっと「岬の文教場」までたどり着いた。映画では片道で二里(8km)と言っていたけど、実際に走ってみると約13kmあった。それもそのはず、この岬を走るルートは、昔はもっと東側の坂手湾側の海岸道だったらしい。もしかするとそのコースは大石先生の脚にもやさしいルートだったのかもしれない。車で走ることが一般的となった現在では、西側の内海湾沿いを走るルートとなって距離も長く、起伏も厳しい道となった。
たどり着いた「岬の文教場」は、明治35(1902)年8月に田浦尋常小学校として建築された校舎で、明治43年からは苗羽(のうま)小学校田浦分校として昭和46(1971)年3月まで使用されていた。木下恵介の映画でも実際にこの教室が撮影に使われ、現在もその当時の机やオルガンがそのまま残されている。教室には、当時の撮影風景の写真も飾られ、その中には自転車で疾走する大石先生の写真も飾られていた。
自転車は、徒歩では距離がありすぎて、車ではあっと言う間に過ぎてしまう距離を観光しながら進むには最適の乗り物だ。労力を必要とはするけれど、ひとつひとつを細かく、つぶさに確認しながら、長い距離を進んで行くことができるのは自転車でしかあり得ない。だから、『二十四の瞳』の中で大石先生が自転車で走ったルートを実際に走ってみることほど、その映画の中に自分を置いてみる行為としても最適なものはなかった。壺井栄の小説の時代とも、木下恵介の映画が撮影された時代とも景色はまるっきり変わってしまって、道も変わってしまっていたけれども、しばし映画の中の時間と共有することのできた素敵な自転車の旅だった。