冬の響き

2015年4月から波多野睦美と『冬の旅』の練習をはじめ、9ヶ月後に神戸と東京で3回公演。これほど時間をかけた練習ははじめて。以前岡村喬生と数回公演したこともあり、斎藤晴彦の『日本語でうたう冬の旅』では、山元清多を中心に斎藤晴彦・高橋悠治・田川律・平野甲賀の5人で訳詞を作って、数年公演したこともあった。こんどはヴィルヘルム・ミュラーの詩とフランツ・シューベルトの音楽についてあらためていろいろ考えた。練習の合間には、Ian Bostridge: Schubert's Winter Journey: Anatomy of an Obsession (2015) をすこしずつ読んだ。詩の日本語訳もした。そのままうたえる訳詞ではなく、詩の各行に字幕のように対応する日本語で、翻訳調の人称代名詞をできるだけ削り、名詞止めや言いさし、ドイツ語の規則的な韻律のかわりに、不規則な半韻をつかう。対訳pdfはここ


歌手であり、歴史家でもあるボストリッジの本からは、当時の政治と文化についての知識をまなんだ。『冬の旅』は多くの歌手にとってのライフワークであり、録音もホッターやフィッシャー・ディスカウなど、いくらでもある。こんどはそういう名演奏は参考にしなかった。作曲家・演奏家として、シューベルトやミュラーと直接に政治的・文化的・音楽技術的対話をしようと思っていた。

ミュラーは、バイロンのようにギリシャの独立運動に参加したくてローマまで行ったが、デッサウに帰らなければならなかった。シューベルトはウィーン周辺から離れられず、抑圧的な体制の、検閲と警察の監視の下で生きた。詩と音楽の抵抗は、正面からのマッチョでヒロイックなアジテーションではなく、ひろくひらいた空間を指さすちいさな身振りでじゅうぶんできる。理論や思想ではなく、演奏のときの、詩や音楽のリズムと身体表現への共感が、啓蒙主義やロマン主義の時代をこえて、いまも息づいている。

ミュラーの『冬の旅』からハイネの『ドイツ冬物語』へ受け継がれた政治詩の流れ。民謡のように簡潔で奥行きのある表現と古典的な韻は、ブレヒトの詩の方法でもあった。第20曲『道しるべ』の「これから行くのは/だれも帰ってこない道」は『ハムレット』第3幕『だれも知らない国から/旅人はだれも帰ってこない」を思わせる。22『勇気』の「神がいないなら/われらが神だ」はニーチェを思わせるが、うつろなアイロニーにすぎない。失恋した男が旅に出るという最初の設定から、人格も性別も消え、家も故郷も捨て、涙も凍り、悦びも悲しみも、夢も希望も幻、休む場所はなく、死と墓も通り過ぎ、闇夜のハーディ・ガーディ、乞食の楽器にみちびかれて、どこかへ消えていく、だれでもないものの、沈黙に向かう貧しいことばは、ほとんどサミュエル・ベケットだ、と言いたくなる。

ハムレットが俳優たちに指図する。「ふるまいをことばに合わせ、ことばをふるまいに合わせ」、やりすぎず、自然の慎みをまもれ。シューベルトがミュラーのことばに音楽をつけたやりかたにも、おなじことが言える。楽器の前奏がその場面を描き出す。風も寒さも、雪の華も、イヌやカラスやニワトリ、風見の旗のきしりまでそこにある。と言っても、いわゆる描写ではない。声は楽器のつくる空間のなかで、声の美しさを聞かせる「歌」ではなく、ことばの抑揚と音色で彩られた旋律の輪郭をなぞりながら「語る」。登場人物を「演じる」ではなく、だれでもない声が壁の向こうで語ることばが喉のフィルターを通して増幅される。と言うと、「表象」のように思われるし、音やことばが向こう側にあり、表現する身体がこちら側にあるような図式が浮かんでくる。演奏の場を離れて、ことばをつかうと、その場で生まれるなにかは消えてしまう。とりあえず、声と楽器をあわせて、現実から生まれ、現実に作用する楽器と声の空間、と言っておこうか。

シューベルトをロマン派として解釈すれば、長いレガートの旋律線、うねり高まる響の嵐、全体構成から分配される部分の劇的対照、過剰な感情表現、演奏技術の誇示、こういう演奏は多いだろう。1950年以後の音列的構成主義から見た「前衛としてのシューベルト」像もある。音高・音価・強弱記号の組合せに解体した響きの精密な設計。記号的理解につきものの速めのテンポと均等なリズムによるディジタルな略画。こういう演奏も、じっさいにあるだろう。

シューベルトを「ウィーン古典派」や「初期ロマン派」ではなく、過渡期の不安定な歴史的な身体と感じるのはむつかしい。演奏は定型を崩しながら、即興でもなく、シューベルトの受け継いだ演奏伝統を考慮しながら その場で対応していく部分がある。第1曲の第1小節の4つの8分音符が均等な歩みになれば、演奏はもう失敗していると感じる。バロック的な不均等な拍を参照しながら、耳が納得する響きを作ろうと試みる。1拍目が少し長くすると、長短短格ダクテュロスに近づく。これはゆるんでいく、空間にひらかれた律、足早にすすむか、おそい場合は21『宿屋』や『死と乙女』での死のリズムにもなる。こうして旅人は歩みはじめた。前半は次の曲が前の曲のパターンを変奏しながら、12曲まで歩み続ける。後半は前半の曲のどれかに対応している。前半はゆっくり谷底へ降りていき、12『ひとりきり』で行き止まりになる。後半は屈折しながらさまよい、24『ハーディ・ガーディ弾き』で空中に消え失せる。

そのほか『冬の旅』の練習をきっかけに見つけた、ピアノで使える技術には、弱い音のさまざまな翳り、腕の重みで強い音をつくるかわりに、胸を引き上げて腕が車輪のようにうごく空間を作り、和音の微かな崩しで内声部に注意を向ける、アクセントを遅らせて呼吸の間を作る、長い線ではなく、ずらした音の層の重なりや滲みとしてのメロディー、音をことばとみなすバロック的な短いフレーズ、たえず伸縮する拍(テンポ)の揺れがある。逆に、身体技法があれば、中心音や和声、ポリフォニーやヘテロフォニーといった既成の技術はいらない。乱流と孔のある空間で音楽が作れる。ハーディ・ガーディの「貧しいものの音楽」が、ベケットのことばにも似た途絶えがちの響きをつむぐ細い流れになって、余韻をたなびかせる。