父の正座

 小学校の一年生だったか二年生だったか。私は父と一緒に蝉採りに出かけた。油蝉が激しく鳴いていたのだから、まだ夏の始めから盛りにかけてのころだったろうと思う。
 あの頃、父は京阪神間を走る私鉄の駅員をしていて、勤務時間が不定期だった。その日も朝方に帰ってきて、
「夏休みやからって、いつまで寝てるんや」
 と母に叱られながら起き出した私をかばうように、
「夏休みくらい、ゆっくり寝させたれよ」
 と父は笑いながら言うのであった。
 共働きだった母は、父のそんな言葉にあきれたようにため息をつきながら玄関から出て行く。出て行く間際に、
「みずやに昨日もろたおはぎがあるから」
 と言った。
 母が出て行くと、父はさっそくみずやを開けておはぎを取り出した。自転車で十分ほどのところにある母方の祖母からもらったものだった。
「えらい形がひしゃげてるなあ」
 父は面白そうに笑うと、青海苔のおはぎに食いついた。
 形がひしゃげているのは、昨日私が祖母の家からの帰り道に自転車でひっくり返り、前のかごに入れていたおはぎが田んぼ道に飛び出してしまったからだった。幸い、祖母がいつも頼りない私からおはぎを守ろうとして、瀬戸物ではなくプラスチックの入れ物におはぎを入れ、それをさらにタオルで二重に巻いてビニール袋に入れるという厳重な包み方をしてくれていたおかげで、おはぎが外に放り出されることはなかった。そのかわり、容器の中で思いっきりひしゃげてしまったのだった。
 父は半分食べた青海苔のおはぎを私の方に差し出して、食べろと言う顔をする。私は青海苔よりもきな粉のおはぎが好きだったので、
「きな粉とって」
 と寝ぼけた声をあげた。
「お前はきな粉が好きなんか。お母ちゃん似たんかなあ」
 と父は言いながら、私にきな粉のおはぎを素手でつかみあげて渡してくれる。
「おばあちゃんのきな粉はご飯が真ん中で外側があんこやから、好きやねん」
 私がそう言うと、父は笑いながら
「お父ちゃんは、青海苔やな」
 と言いながら半分残っていた青海苔のおはぎを口に放り込んだ。
「蝉採り行くか」
 父がそう切り出したのは、私がきな粉のおはぎをちょうど食べ終わる頃合いだった。普段なら朝方夜勤から帰ってきた父はそのまま寝てしまうのだが、その日はなぜかそんなことを言い出したのだった。
 もちろん、私としては願ってもない。私は父と二人で蝉採りに出かけることになった。

 いくら考えても思い出せないのは、なぜそのときに弟がいなかったのか、ということだ。私より一学年下の年子の弟は当時私が行くところにはいつでもどこにでも付いてきていたので、このときだけいなかったのは、私が起き出すのを待てずに先に遊びに出かけたのか。とにかく、そのときには弟がいなかったのだった。そして、自分一人だけが父と蝉採りに行くということが嬉しかったという記憶がある。
 父と蝉採りに行くと、いつもよりたくさんの蝉が穫れるのがうれしかった。子供だけだと低いところにいる蝉しかとれないこともあるのだが、それよりも父は釣り竿を改造した蝉採り用の網を持っていて、これは子どもたちだけのときには使ってはいけないことになっていたのだった。
 釣り竿を改造した蝉採り網は柄のところが伸縮自在の釣り竿で、持ち運ぶときには八十センチほど、伸ばせば二メートルほどの長さになった。
 それだけでも、十分に長いのだが、父は高揚している私に向かって
「もう一つ武器があるんや」
 と言って笑った。
 父はテレビの裏側に立てかけてあった竹を取り出した。これは一メートルほどの長さで、見事にまっすぐな竹だった。まだ、表面が青く、切り口が斜めにきれいに切られていて、恐ろしく切れる鉈かなにかで伐採されたように見えた。
「これ、どないしたん」
 私が聞くと、父は少しもったい付けたように
「ええやろ。お父ちゃんが働いてる駅の裏手に竹林があってな。そこから伐ってきたんや」
「そんなん、勝手に伐ってええのん」
 私がそう聞くと、父は一瞬驚いたような表情をして、
「ええねん、ええねん」
 と答えたのだが、父はそう言いながらも少し慌てているようにも見えた。しかし、そんなことは私はどうでもよく、普段二メートルくらいの網が今日は三メートルになる、ということで居ても立ってもいられないくらいに興奮していた。
 父は、着ていた電鉄会社のワイシャツとズボンを脱ぐと、ランニングシャツにステテコという姿になって、そのまま雪駄を引っかけると表に飛び出した。私も夕べから脱ぎっぱなしにしていた半ズボンを履くと父に続いた。
 父は釣り竿を改造した網を持ち、私はその後ろから竹をもってついて行く。近所の庭のある家からはすでに油蝉のけたたましい鳴き声が聞こえていた。
 当時、私の家の近所の道路はまだ舗装されていないところも多く、砂利道をビーチサンダルで歩くのは、足の裏が痛くて嫌いだった。しかし、その日に限っては手にした竹をまるで兵隊の鉄砲のように肩に担いで、いつもよりも膝を高くあげて歩いた。足の裏が痛いなんて思わなかった。
 ランニングにステテコ姿の父が前を歩く。その後ろを竹を担って私がついて行く。目的地は家からほんの五分のところにある神社だった。こんもりと生い茂った小さな林のような境内をもつ神社は近所の子どもたちのたまり場になっていた。石柱を並べたような外壁があり、その向こうで顔見知りの子どもたちの声がしていた。
 私はもう一刻も早く父の持っている釣り竿を改造した蝉採り用の網と、私が担いでいる継ぎ足し用の武器を友だちに見せたくて見せたくて仕方がなくなっていたのだが、そこは子どもだ。子どもというのは、突然妙なことを考えてしまい、自分の考えがわき道にそれてしまうことに気がつかないものだ。自分が大人になってから思うのだけれど、それを律して、そのとき考えなければならないことを考え続けることができるということが大人の証のような気がしてならないのだ。
 そう考えるといまの私も十分に子どもじみているのだが、当時の私はまさに子どもの中の子どもで、いったん妙なことを考え始めるとそこから逃れることができないほどだった。
 そのとき、私の頭の中に浮かんだのは、自分が肩に担っている竹の節はくり抜いてあるのかどうか、ということだった。
 少し前に小学校の担任の先生が、竹には節がある、ということをしきりに話していたことを思い出したのだ。
「竹には節があって、ししおどしなどはそれを利用しているのです」
 とテレビドラマでしか見たことのないししおどしの絵まで黒板に描いて先生は説明してくれるのだった。
 それなら、この竹にも節があるはずだ。節があるかないかは、この竹の切り口から向こうをのぞいてみればいい。そう思った私は父の後を追いながら、斜めに伐られた竹の切り口をのぞき込んだ。立ち止まってのぞけばいいようなものだが、立ち止まっていては父に置いて行かれる。そして、なによりも少しでも早く蝉採りをはじめたいという気持ちが勝っていて立ち止まることなど考えもしなかったのである。
 まだ身長が一メートルを越したばかりのころの私が一メートルほどある真っ青な竹の伐り口をのぞき込むためには、まるで長い望遠鏡を見るような格好になった。しかし、長い竹は上下にしなってうまく節が見えないのだった。必死になってのぞき込むうちに腕が疲れてきて、竹の先端が地面に付いた。地面に付くことで重さはましになるのだけれど、砂利道をブルドーザーのように竹で押しながら歩いている案配なので、上下にしなりはしないのだが、今度は前後にごつごつと動き出した。それはそうだ。砂利道に敷かれた石の中にはときおり大きなものがあり、そこに突っかかると竹がぐっと目の前に近づいてくる。それをさらに力で押しながら前へ前へと進んでいく。そして、進みながら竹の節をのぞき込む。
 そのとき、また大きめの石に竹が突っかかった。それをまた力で押そうとしたのだが押せなかった。竹は砂利ではなく地面そのものに刺さったように微動だにせず、反対側の鋭い伐り口のほうが、のぞき込んでいた私に突き刺さった。
 痛みよりも驚きに声を上げる私を父が振り返る。父の驚きは私の比ではない。振り返るとまだ幼い我が子が自分が持ち帰った竹を顔面に突き刺して血を流している。しかも、血の出所は右目のあたりだ。
 父は私に駆け寄り、目元に刺さっていた竹を抜き、私を抱え上げると近くの医者へと走った。
 そこから先のことはなにも覚えてない。幸い、竹は直接目には刺さらず、目と鼻の間のわずかな部分に刺さり、目にも鼻にも支障のないただの裂傷となった。しかし、盛大に血が出たことで、父は動転してしまったらしい。
「おまえの目を見えんようにしてしもたと思て、すまんすまん言うて謝りながら医者に走ったんや」
 と、それから何年もしてから父が話していたことがある。
 医者に到着したことも、治療してもらっている最中のことも私はなにも覚えていないのだが、父によると私はずっと泣き続け病院を出るころには泣き疲れたのかそのまま寝てしまったのだそうだ。
 私はあの時、家に帰ってから布団に寝かされていたのだと思う。私と弟の部屋ではなく、家族がテレビを見ていた居間で、私と弟が使っていた物よりも少し大きく少しふかふかな布団に寝かされていた。痛み止めか化膿止めの薬を飲まされていた私は、そこでぐっすりと寝ていたのだが、夜遅くになってから目を覚ましたのだった。
 父と母がいて、その向こうにテレビがあった。テレビはスイッチが入っていて、ドラマか何かが放送されていた。そんな時間にテレビを見せてもらったことがないので、私は父と母越しに見え隠れするテレビを薄目を開けながら、見ていた。目を覚ましたことがわかると、昼間の怪我のことで叱られてしまう。そう思った私は寝たふりをしながらTVを見ていたのである。そうこうしているうちにまた薬が効いてきたのだろう。私は再び目を閉じて眠ってしまった。
 それが私が子どもの頃の夏の思い出なのだが、しかし、最近になってあのとき、父はテレビの前で正座していたのだということに思い当たった。確かに、背中を丸め小さくなって正座をしている父を母が言い咎めていた。私はその二人の間からテレビを見ていたのだ。そして、テレビを見ることに必死で、父と母がその時、何をしていたのか思いがいたらなかったのだ。父は私に怪我をさせたことで、母の前で正座をして謝っていたのだろう。
 法事などの改まった席でも、いつもあぐらをかいていた父だったので、私が父の正座する姿を見たのは、あの夜の曖昧な記憶の中だけの出来事になった。