漢方医院のとびらを開けると、細長い通路の奥から生薬の香りが漂ってきた。蛍光灯で照らされた病院とは明らかに雰囲気が違う。どうやら、珍しくクリニック内で調剤をしているようだ。通路からそれぞれの部屋に入るかたちになっていて、一番手前が受付、その奥が診療所、そして一番奥に処方箋を受け渡す場所。きっと煎じ器もあるだろう。受付で待っているひととき、雨で冷えて強張ったわたしの身体は、白熱灯の光と薬草の土臭い香りで充分にほぐされた。
去年の秋のこと。原因不明の虫刺されに市販の薬を塗って放っておいたら、見事に悪化した。ひどく悪くなってしまったのは右足首の内側で、三陰交というツボの部分。中心の刺しあとが赤紫色に腫れて、まわりに黒ずみが広がる。皮膚の奥で、なにかが蠢いている感覚が気持ち悪くて、寝ているうちに掻きむしっていたらしく、その箇所は、見ていられないほどにただれてしまった。少し引っ掻けば、あっさりとめくれてしまう脆さだ。その弱さは、もはや皮膚ではなく、和紙や障子紙を思い起こす。市販の薬や病院の皮膚科で処方された抗生物質は効くどころか、顔や脇の下に蕁麻疹がでてしまい、逆効果となった。困った末にたまたま一駅先に漢方専門のクリニックがあることを知り、冷たい雨が降るなか、片足を引きずるようにして歩いたことを思い出す。
「これね、あなたね、まず、虫の毒を抜かないとだめです。皮膚の奥で悪さしてますから。もちろんそれだけが問題じゃないんだけどね。まず、針で刺して血を出します。そのあとに毒が出てきます」
先生にそう言われて、表情が凍った。そんなわたしを見て笑いながら
「大丈夫、ちくっとするだけだから!」
子供をあやしているみたいだ。次の瞬間、消毒した太い注射針で足首の腫れた部分を数カ所ぶすぶすと刺されて、その容赦の無さにびっくりする。しかし、つつかれた感覚だけで、痛みはあまりなかった。痛みさえも感じない皮膚になっていた。
刺して作った出口から、血が玉になって吹き出してくる。滞っている何かが、突然動き出した気がした。燃えるように熱い。ガーゼに垂れていく血液の鮮やかさは、染料のようだ。すべては色で出来ていることを実感する。次第に、血の赤が無色透明に変化する。これが「虫の毒」だ。皮膚を押して、毒を出し切ったあと、薬を塗布しながら、先生は言う。
「毒が入ったまま生活していたという以外に、見た感じ、あなたは冷え性で乾燥肌なので、治りが遅い。けれど、身体を温める意識をすれば体質は変わる。時間はかかるけれど、身体は臓器から皮膚までぜんぶ繋がっているから、血の巡りを良くすれば治りも早まります」
血が循環していることに意識を向けること。いつの間にか身体を分離させて考えてしまうのは、痛みや怪我が目に視えるからだ。視えない部分にどれだけ意識を持っていくことができるだろう。身体のなかを潤して、循環をよくさせること。でないと枯れてしまう。身体はまるで樹木のようだ。
処方箋を受け取るために、廊下の奥に案内される。思ったよりも通路はもっと奥に繋がっていて、ほらあなのようだった。調剤用の薬草が入った、たくさんの引き出しが取り付けられている木製の棚が見える。
看護師の女性がまっすぐこちらを見て、にこり、と微笑んでくれる。エネルギーに満ち溢れているひとだと、一目みただけでわかった。処方箋の説明を丁寧にしてくれ、おだいじに、と言われる。
早朝、漢方を白湯に溶かして飲む時間は至福のひとときだった。土の味が暖かい。今年に入っても皮膚はまだ疼くが、ゆっくりと再生している。草花が成長するように、季節が移り変わるように、皮膚の上で時が流れているのを感じている。