しもた屋之噺(170)

この二日ほど雨が降りしきっています。朝、日が明けるのはずいぶん早くなって、寒も緩んできたと思っていましたが、またストーブを点けて今月の日記を書き出しています。

---

 2月某日
国立音楽院にてドナトーニ歌あわせ。2階の教室を訪れるのは本当に久しぶりで、学生時代を思い出す。あの頃と比べると学校はずいぶん綺麗になった。入口で身分証明書を提出し訪問許可証を受け取る辺りに、世相が反映。

初めて歌手4人に会うと、アジア人3人にイタリア人1人。アジア人のソルフェージュ能力は、やはり総じて高いのか。台湾出身でコロラテゥーラのシャオペイは、4人のまとめ役で、とても難しい パートを軽々とこなす。台湾の地震の話をすると、家族は大丈夫と微笑んだ。韓国出身のスヤンは、歌うときの堂々として輝いているが、練習に際してはとても丁寧で感心する。勢いだけではない。第3ソプラノのミキは、内声の複雑な部分をとてもよく読み込めていて、安心して任せられる。アルトのヴィットリアの声色は、豊かで説得力がある。彼女の声を聞いて、何となくドナトーニが一人アルトを加えた理由がわかる気がした。
音とりを確認し、フレージングと声部の絡みを読み返しながら、テンポや強弱、息継ぎの箇所などを決めてゆく。演奏困難なパートで、学生には無理ではと皆心配していたから、ソルビアティやマンカも最初の練習にやってきたけれど、彼女たちの能力の高さと、吸収力のはやさに舌を巻いた。秋には、ゴルリが「アルフレド・アルフレド」を国立音楽院で上演するけれど、彼女たちがいれば安心。

ドナトーニでこれほど自然なフレージングの曲は他にあるだろうか。人生の終焉近く、それまで自身の音楽への参加を頑なに拒んだ彼が、漸く自分に優しさを見出したのか。流れるような曲線のフレーズと音の呼吸。それは時として途方もなく長い息を描くが、以前と違って持続ではなくフレーズと知覚される。音細胞を展開、蓄積し、連鎖させた持続を捨て、直感的にさらりと音楽そのものを描いた。

 2月某日
イタリア放送響コンサートマスター、ランファルディが、オーケストラに交じって弾きながら学生たちにさりげなくアドヴァイスをしてくれる。この数日、彼は毎日早朝トリノから車を飛ばしてやってきている。休憩中、ずいぶん彼と話し込む。特に印象に残る指揮者で日本人は大野さん。あとはデ・ブルゴスやプレートルの名前があがる。プレートルは決して分り易くはないが、生み出される音楽の素晴らしさに圧倒されると繰り返す。火の鳥冒頭のクラリネットやファゴットの音型を、尖った嘴のように突いて見せてねと笑った。

初めて会ったとき、ランファルディはいわゆる上手な指揮者の話をしてくれたが、胸襟を開いて親しく話すようになると、音楽の素晴らしい指揮者の話になる。それは、わかりやすさでも、人柄のよさとも、もちろん聴衆の人気とも違う部分での信頼関係。ランファルディはミヨーを大嫌いだという。「屋根の上の牛」をどうしても弾かなければならなくて、それ以降ますます嫌いになったらしい。

 2月某日
酷い雨のなか、ドナトーニのクライマックスで使うホイッスル式サイレン3つを買いに朝7時の電車でロヴァートへ出掛ける。明日最初の本番を控えていて、昨日になってサイレンがどこにもないと電話をうける。イオニザシオンで使う、手回しサイレンが一つ用意してあったが、これでは書かれている箇所で演奏できない。長年のイタリア暮らしで、任せておいて後悔するのは厭だと、ちょうど今日のリハーサルが午後からになったので、自分でブレッシャの「カヴァッリ楽器」でサイレンを買うことにした。ロヴァートに8時半過ぎに着いてみると、この街にはタクシーはいないと言う。駅で教わった個人タクシーの電話番号は通じず、インターネットで検索したハイヤーを頼んだが、当初30分と聞いていたベンツは、1時間半経ってやってきた。

 2月某日
学生と卒業生混成オーケストラとは言え、「火の鳥」やドナトーニが出来るか不安だったが、練習を始めると想像以上の吸収力におどろく。オーケストラに参加したくて、オーケストラを学びたい若者が集っているのだから、当然でもある。一つずつ説明しなければならないけれど、説明されたくてうずうずしているオーケストラというのも面白い。「火の鳥」やミヨーは兎も角、ドナトーニやチュルロなどの現代作品でも楽しそうで、練習が終るとみな口々に旋律をハミングしながら散ってゆく。ドナトーニも喜んでいるに違いない。

今でこそガッティとマーラーをやったり、彼らのレパートリーの幅もすっかり広がったけれど、3年前まではベートーヴェンかシューベルトの交響曲でも青息吐息で、とヴィオラ科教授のタレンツィが誇らしげに話してくれた。学校あげての再生事業が功を奏したということ。

 2月某日
メルセデスのお宅で、シャルロットとファビオというフランス人とイタリア人の夫婦に会う。子供3人はフランス語で話していて、フランス人学校に通う。シャルロットはミラノ生まれのミラノ育ちだが、ミラノのフランス人社会はとても排他的で、ファビオと出会った時、シャルロットはイタリア語は話せなかった。ただ、在住フランス人がミラノを嫌いかというと、正反対だという。そんな話を聞きながら、自分と日本人社会について考える。長年ミラノに住む日本人の友人もいるが、切っ掛けがなくて日本人会に入りそびれたままで、日本人社会がどんなものか全体像すら分からない。

学校の帰り道、夕暮れの教会の鐘をききながら自転車を漕いでいて、20年前なら、こんな風景一つ一つに感動したに違いない。自らの感受性の鈍化におどろく。
時間を見つけては魔笛譜読み。アリアのオーケストレーションで、実にていねいに声が通るよう楽器を軽くしてあることに改めて感嘆する。どれだけ時間に急かされて書いたか想像すらできないが、全く手は抜かれていない。全体の構造の簡潔さ、対称性、使われている素材の類似性など、万が一にも作曲の効率も鑑みられていたのかも知れないが、それ以上に、全体の均整に対して絶妙に寄与する。

 2月某日
イタリア人のリッカルドとウルグアイ人のメルセデスと、スペイン語風イタリア語表現の話。
風邪をひく--buscarsi un
raffreddoreという表現があって、奥野先生の本で独習したから、大学に入る頃から知っていたが、使ったことも耳にしたこともなかった。聞けば、2世代ほど上のリッカルドの祖父母はしばしば使っていたと言う。
Taccaniの辞書によると、buscareはスペイン語の「探す-buscar」が語源で、同じく「探しもとめる」の意とあるが、「探し求めて風邪をひく」という表現は、どうも腑に落ちなかったが、リッカルドが分かり易く説明してくれた。
buscarsi un raffreddoreは、「わざわざ寒空の下薄着で突っ立っていたら、案の定風邪をひいた」の意味で、「自ら風邪をひいた。風邪を自ら探しにいった(è andato in cerca di un raffreddore)」の文字通りの意味だった。

同じくリッカルドが、床に臥せっていたメルセデスを、sembra che Mercedes si stia covando un raffreddore, と形容したのが、とても美しいと感心する。直訳すれば、「どうもメルセデスは風邪を抱卵している」、という言い回しで、covarsiは鳥が卵を温めるときに使う。今の若者はこんな深い言葉の使い方はせずに、単刀直入に「風邪をひいた」とだけ云う。リッカルドと奥さんのカルロッタと話していて、世界で最も直接的かつ綜合的、普遍的な言語は、Veni, Vedi, Viciのラテン語だという。彼らに言わせると、こんなカエサルの言い回しは邪道で、ラテン語の真骨頂はキケロだそうだ。普通に高校でラテン語を勉強する国は、ヨーロッパでもイタリア以外あまりないときいた。

(2月29日ミラノにて)