片岡義男さんの新作『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。』が2月20日に光文社から出版された。編集を担当した篠原恒木さんによると、「レコードを媒介にして、ご自身の物語を書いていただけませんか。それも時代を区切って、20歳から作家デビューするまでの期間で」というリクエストから本づくりが始まったという。
片岡さんが1974年に『白い波の荒野へ』で小説家としてデビューする前、1960年から1973年までのフリーランスのライターであった時代を、その頃ヒットした音楽(ドーナツ盤)とともに振り返る物語だ。片岡さん自身と思われる「僕」を主人公に、44編の短いストーリーが編まれている。
「著者初の自伝小説」という宣伝文句を見た時は「おお!」と思ったけれど、これまでのように、小説のなかに見えている以上に片岡さんが見えるということはなかった。それで私には充分だったのだけれど...。
音楽と共に語られる物語の読後は、不思議と静かだ。ストーリーひとつひとつは、ある時の印象的な場面が切り取られたものだとも言える。「1月1日の午後、彼女はヴェランダの洗濯物を取り込んだ」の1編は、きっと多くの人が好きだというだろうな。家族を撮影した昔の8ミリ・フィルムのように、光に満ちて、平和で温かな読後感をもたらす。
この静けさは、主人公の僕が寡黙だからだろうか。全編を通じて主人公のモノローグなど出てこない。相手とかわす、短い会話文のなかの率直な返答と、描写される行為のなかにしか、主人公を知る手掛かりは無い。あるいは、1960年代という時代への遠さがそう感じさせるのだろうか。赤電話、都電、編集者に直接手渡す手書きの原稿......。今は失われてしまった物たちも、ストーリーに効果的に作用している。
『コーヒーにドーナツ盤、黒いニットのタイ。』は不思議な魅力をもった1冊だ。
かつて、片岡さんに60年~70年代の頃の話を聞いて、インタビュー記事にまとめた事があった。あのインタビューから5年たって、あの時代についての物語がこのような形で届けられたことに、うれしさと新鮮なおどろきとで胸をいっぱいにしている。