しもた屋之噺(172)

ここ数日、寒暖の差が頓に激しく、朝パンを買いに出掛け、息子を学校へ送ってゆくと、もう4月が終ろうとしているのが嘘のように、手が悴みます。数日前には中部イタリアで雪が降ったとニュースにありました。被災地の寒が緩んでいるのを信じつつ、日記を取り出します。

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 4月某日 ミラノ自宅
朝、庭の大木を啄木鳥が盛んに叩く音で目が覚める。もう三日ばかりこの黒い鳥が続けざまに通ってきていて、穴の直径は十センチ弱。覗き込むと案外深い。巣を刳り貫いているのだとばかり思っていたら、そうではなくて、餌を捕っているのだと教えてくれる人あり。虫を捕るのにこれほどの大きな穴が必要かと疑問に思っているうちに、姿を見せなくなった。

沢井さんから頂戴した、木戸敏郎著「若き古代」読了。雅楽に、元来聴衆はいなかった。天子が天と繋がるために、自ら音を奏で、周りはその儀式に立ち会う。誰に聞かせるのでもない。自らのために、音を出し、空気がふるえる。何時から、どういう切欠で我々は他人のために音楽を書き、奏でるようになったのだろう。そうして完全無欠な音楽を目指すなかで、我々の耳はすっかり退化し、鈍化した。聴覚だけではない、味覚も嗅覚も視覚も触覚も、我々は退化しつつ進化し続けてきた。

天皇即位の折に八百万の神々、歴代天皇へ「申し上げ」をする際、神々から天皇へ応える声を、誰も正体をしらない、鈴の音が応える。芝祐靖さんの言葉が紹介されていた。「しかし、社殿から漏れてくる音を遠間に聞くことはできた、という。小さい鈴がいっぱい鳴っている、という感じの音だった、と話してくれた。私が三番叟の鈴のような音かと問い返すと、それとは違う、もっとたくさんの小さい鈴がまとまって鳴っている音だ、という。ゴッシャ ゴッシャ ゴッシャ という感じの音らしい。これが延々続くという」。

井筒俊彦さんが書いてらした言葉が頭を過ぎる。マホメットが神から預言を受けるとき、授かる言葉は、鈴の音のようなものだった。
「誰かがムハンマドに尋ねます。"神の使途よ、あなたにはどんなふうにして啓示が下るのですか"。預言者は、つぎのように応えた。"時によると、啓示はベルの音のように私のところへやってくる。この形式の啓示がいちばん苦しい。だが、やがてそのベルの音は止み、フッと気がついてみると、それがコトバになって意識に残っている"、とこういうのです。"時によると、啓示はまるでベルの音のように"、ミスラ・サルサラティ・ル・ジャラス、ジャラスというのはベルです。 ごらんになったことがありますか、駱駝などに大きなベルがぶら下げてありますね。駱駝が歩くとチャリンチャリンと音がする。あれです。サルサラティというのはオノマトペア、擬音語です。日本だったら、サルサラというとさらさらと流れる水の音みたいですね。だけどアラビア人には鈴の音がサルサラと聞こえるらしい」。

 4月某日 ミラノ自宅
新作に使う素材「Wachet auf, rufet uns die Stimme」を、フィリップ・ニコライが書いたのは、黒死病で無数の人々が斃れてゆく絶望の中で、彼は心の拠り所を信仰に再び見出したからだという。彼の弟子、Waldeck候ウィルヘルム・エルンストが15歳でペストに斃れ、テキストに「Graf zu Waldeck」の頭文字を逆に並べた折句を使った。水谷川さんから、何かバッハと所縁のある作品を頼まれたとき、この旋律が思わず頭に浮かんだ。

11歳の愚息は、ショパンとモーツァルトとバッハは好きだが、ベートーヴェンがよく分からないと、友人宅でこぼしていたらしい。それは笑い話だけれども、実際自分がベートーヴェンが分るかと問われたら、言葉に詰まるかも知れない。何をもって分かると呼べるのか分からない。自分にとって、シューベルトのように耳にするだけで幸せという存在ではなく、たとえ特に好きな偶数番号の交響曲を聴いていても、至福のなかに、常に意識を覚醒させる何かが鳴り続ける。

 4月某日 自宅
愚息が小学校からの帰宅途中、眼前の飛行雲に目を留めて、まるで飛行機が墜落したような弧だ、と声を上げた。馬鹿げたことをと笑って聞き流したが、確かに角度をずらして目を凝らせば、地上に向って斜めに落込んでいるようで、先日読んだ本の中で木戸さんが、屏風絵の配置について盛んに書かれていたのを思い出して、虚を衝かれる思い。

「この"群鶴図屛風"も歌仙絵と同じ性格のものであり一双を向かい合わせに立てる屛風であった。左右両隻の鶴の群は上座に向い、落款は下座に揃う。この一双に囲まれた空間に身を置くと、あたかも釣るの群の中に迷い込んだような錯覚におちいるであろう。光琳の巧みな構図である」。
息子の観察眼、想像力に比較して、自らの視点がいかに凡愚なことか。思い返せば、自分の想像力は齢と共に愕くほど退化した。子供の頃、部屋の箪笥のパステル色のプリントが本当に恐かった。今から思えばそれは涎掛けであったり、下着だったり、段毎に中身を示している他愛ないものだったが、当時はそいつがこちらの様子を伺っているようで、まともに見られなかった。

 4月某日 自宅
毎朝ヴィニョーリ通り角のパン屋へ、朝食のパンとヨーグルトを購いに出かける。朝6時半くらいに着くと、ブルーノがオペラアリアのオムニバスを大音量でかけながら、店の奥で最後のパンを竈に入れている。パン職人は誰でも白Tシャツを着ているのは何故か分からないが、今朝は「Vincerò」が朗々と掛かっていて、その姿を思い出しつつ、朝食。

昨夜は14番トラムに乗っていて、財布の入ったカバンを引っ手繰られる。スタンダール通りの停留所で、扉が閉まる間際、二人組の男が、こちらの目を見ながら近づいて来たかと思いきや、出抜けに膝の上のカバンを取って走り出した。こちらもそのまま飛び出し、「泥棒」と叫びながら追い掛ける。追われるのは想定外だったのか、さほど足は速くなく、追い付きそうになったところで、歩道の凹凸に足を取られこちらが躓いたが、それでも声を上げて走った。通りがかりの若者たちが気がついて追いかけ始めてくれた辺りで、流石に泥棒も観念してカバンを近くの空地に放り出し、どこかのアパートに駆け込み逃げきった。タックルになりかけたところで、ラグビーボールを投げ出しスタンド席に逃げたような格好か。泥棒家業も大変なわけで、あのまま手ぶらで家に帰り家族から駄目亭主などと詰られていたら、少し気の毒な気もする。

 4月某日 自宅
風邪をひいているのか、花粉症なのか、身体が重く、思い立って夕刻、自転車でアッビアーテグラッソ手前のカステルレット・ディ・メンドージオまでナヴィリオ運河沿いに走って、往復40キロほどか。コルシコを過ぎると、途端に自然が広がり、牛や鶏が野原に放たれ、草を食んでいる。窓が開放たれた牛舎の壁に、牛と同じ顔をした主人が門に物憂げな様子で門に凭れている。新緑が眼にうつくしく、水田には水が曳かれ、そこに青空が映る。ミラノから少し離れただけで、人々の姿もすっかり違って、純朴で人懐こい。

翌朝息子を連れて、アッビアーテグラッソで電車を降り、ベルグアルド運河を訪ねた。キックボードを携えてゆき、16キロほど散歩。誰一人いない野原が続き、時折サイクリングやジョギングする人とすれ違う程度で、わたる風の音と水の音以外何も聴こえない。視界を遮るものも何もない。オッツェロ、モリモンドを越えた橋のたもとで、二人で切売りのピザを頬張る。息子と同じくらいの頃、よく父に連れられて、蛍田あたりの水路に毎週のように釣りに出かけた。ベサーナの小橋端に、牛舎があって、息子は盛んに牛に話しかける。そのうち、一頭また一頭と寄ってきて、終いには息子の周りは牛だらけになる。ミラノ行きのバスに乗り込んだ途端、息子は眠込んだ。

 4月某日 自宅
沢井さんから頂戴した松本清張の「正倉院への道」読了。専門家がそれそれ一番面白いところばかりを解り易く説明するから、随分得をした読後感が残る。歴史がどれだけ躍動感に満ちていて、音楽がどれだけ歴史と肉薄してきたか改めて思う。井筒俊彦の「コーランを読む」と同じく、背筋をゾクゾクさせながら読む。木戸さんと井筒俊彦に共通する、「書かれている言葉を、ただ理解するのではない」、という姿勢に対し、心からの共感を覚える。文化人類学的、宗教学的、考古学的考察は勿論大切だが、それを基にして再現作業に臨む際、残された情報の根底に流れる文化の血潮が通っていなければいけない、という明快な論理。

我々に置換えれば、音楽学的な歴史的演奏法、楽器法の考察をいくら再現しても、本来の音の意味が表出されないのに等しい。演奏法や楽器法の再現は、それ自体には意味があるけれども、それ以上でもそれ以下でもない。徒に再現するだけでは、木戸さんが書くように、博物館に陳列されるのと大差はなく、言葉を幾ら理解しても、言葉の奥にある感情が共有されなければ、本質が欠落したままになるのに等しい。

尤も実験考古学など心から憧れるし、不可欠だと信じる。だけれども、自分が音を書き奏でる折に、「再現」という言葉に食指は動かない。日一日退化を続ける我々に残された可能性と言えば、与えられた情報の表層のみに惑わされず、その文化の根底を観続けながら、自らの感情を音にすること。陳列された言葉としてではなく、生きた自らの言葉として表現すること。

(4月30日 ミラノにて)