植物の分類の話の続きです。と言いますか。お話を考えていたら、興味深い記事があったので取り上げてみます。
2016年5月号の日経サイエンス誌の記事の中に「大丈夫か、標本の名称表示」というものが載り、少し関係者の中で話題になったようです。記事の内容は海外の調査結果で、大学や博物館にある標本館に所蔵されている植物標本のうちの半分が間違った分類がなされているというものです。これを読んで、さて、みなさんはどのように感じるでしょうか?
専門家がいる施設でそんなにいい加減なことが行われているのか?と憤慨するでしょうか? それとも、専門家でもそんなものなのか、と思うでしょうか?
少し実態を知っている私の感想はそんなものだろうな、と思いました。これにはいくつかの背景があります。まず、前回もお話ししましたが、植物の分類には実は定番はないのです。ですから、変化のあった分類では常に種の区分の見直しが行われていて、その時点の結果だけを見れば、異なっているように見えるでしょうね。
もうひとつは、標本というものの性格です。標本庫の標本のひとつの使命は植物が分類され、命名された基準の保存です。これはタイプ標本と呼ばれ、世界にひとつだけ存在します。このタイプ標本は実際には予備の標本もいくつか作られます。こうした標本は世界の研究者に貸し出されたり、交換されたりしています。もうひとつは、比較研究のための標本です。分類の研究をする場合には、比較研究する必要があるためにどうしてもその研究対象に対する複数の標本が収集されます。最後に、現在の植物研究の世界での傾向ですが、どうしても屋外ですぐに同定できないものは標本という形で持ち帰ることになります。しかも、多くの植物の生育している環境は高度に保護されていることが多いために、すぐにわかる植物は採取されません。多くはよくわからない植物を最低限持ち帰って、それを研究施設で分類することになります。なので、最近の標本については特に「よくわからないもの」が集められています。
これが例えば牧野富太郎の時代であれば、馬の背に俵いくつぶんかの植物を採取したと言われていますし、実際に尾瀬の採取旅行では、長蔵小屋の主とその破壊っぷりで口論になったという記録が残っています。しかし、現代の調査行では、たとえ採取許可証を持っていたとしてもそんな派手な標本採取は行いません。なので、特に最近のものに関しては、分類不明なものが後年の研究に委ねる意味もあって、標本庫の中に残っているのではないか、と容易に想像できるのです。
記事は、だから、専門の分類研究者を多く採用すべきと結んでいるので、この結論も否定しませんし、研究者を採用させるキャンペーンであると考えると大いに納得できるところではあるのです。
が、でも、そんなものなんじゃないですか? と思うのです。