1948年(昭和23年)生まれのぼくが、学校で初めて憲法について習ったのはいつだったのかは思い出せない。しかし、その時の印象は強く残っていて、憲法は光り輝いていた。それまでの暗黒時代、人々は軍国主義の流れにあらがえず、他国のどれだけの人々を殺傷したのか、そして、この国のどれだけの人々を犠牲にしたのか。
赤紙(召集令状)が届くと、戦列に加わるしかなく、異を唱えた人は非国民とレッテルを貼られ、特高警察によって過酷な尋問、拷問があった。だから、憲法成立後に生まれてよかったと、心底思った。そして、二度と、戦争は繰り返してはならないとも。
憲法9条「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。もっと易しい言葉で習ったと思うが、子供心に、いさぎよく、かっこいいなと思ったものだった。
しかし、その後、ぼくはどれほど、憲法を大事にしてきたか。国の繁栄のなかで、憲法は空気のような存在になり、少しおろそかにしてきたのではなきかという気もする。でも、自分の価値観のようなものの、その根源を、土中に延びる野菜の根をたどるようにまさぐっていけば、その先に現憲法があるというのは事実だ。
ぼくは19歳の時、ベトナム戦争に反対して、非暴力の座り込みに参加し、逮捕された。その座り込みを呼びかけたのは、昨年亡くなった鶴見俊輔さんだった。
その日以来、ずっとさまざまな社会行動に参加してきたが、非暴力のあり方に疑問を持つことはなかった。その根っこはどこにあったのだろうかといろいろ考え、ガンジーでもない、キング牧師でもない、もちろん、鶴見さんを含め、いろいろな人から影響をたくさん受けているけれど、詰まるところ、憲法9条だったのではないかと、最近、気づいた。9条の非暴力の精神にぼくは導かれてきたのだと。
幾百万の犠牲者の魂は、憲法によって、憲法を守っていくことによって救済されるのではないか。集団的自衛権は、根本において間違えていると思う。安倍政権の言動を見ていると、また戦前のような状態に引き戻されそうな危惧を覚える。ここで声を上げないと、大河の堤防が決壊した時のように、人々と生活と権利、そして平和が無残にも押し流されて行く気がする。すでに一部、決壊した。堤を守るには、もっともっと大勢の人々が多様な方法で、堤を踏み固めることが必要だ。
安倍政権を中心に置くと、ぼくは反対者ということだろう。しかし、憲法9条を中心に置くと、ぼくは肯定者で、世論調査においても、国民の多数が肯定者、安倍政権が否定者だ。
もっと公然と、一人ひとりが声を上げよう。
平和憲法いいね! 変える必要ないね!
選挙は大事! 投票に行こう!
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このぼくの問いかけに対して、約20名の人々から感想が寄せられた。振替用紙の通信欄、電話、FAX、地元の会員の人とは会話の中で。
約150名の循環農場会員の中には、国会前のやむにやまれない気持ちで駆けつけている人たちが幾人もいることは知っている。その人々にとってこの問いかけはどう届いたろうか。なんで今、肯定デモなの? と感じた方もいたのではないか。「ぼくもやっと重い腰を上げたから、皆さんも国会前に行きませんか」という呼びかけならまだしも、どうしてと。不快な思いをさせていたらごめんなさい。国会前に集まっている人々に注文をつけたわけではないし、そんな失礼なことを言うつもりもない。
ぼくが声をかけたかったのは、安倍政権の言動に危機感を抱きながらも、それをどう表現すればいいのか悩んでいる人々、かつてデモに何度も参加したことがあるが、さまざまな理由で、足が遠のいている人々、そもそも、デモということに対して違和感をかかえている人々など、それらの人々の中に、ぼく自身も含まれていて、この問いかけは、ぼく自身に対する問いかけ、呼びかけでもある。
寄せられた言葉の中から少し紹介したい。
○「肯定デモ」いいね! 闘争的でない表現がいいです。穏やかな力強さで安倍政権に抗議したいです。
○「肯定デモ」すごく良い! 反対運動に関わってきた人が、あらためて「肯定デモ」をしてくれたことに重みを感じる。
○「肯定デモ」あっ! と視野が広がりました。発想が柔軟、笑顔でデモできそう。声を上げよう、というのも聞く者に訴える力が大きいなと思います。
○「いいね!」の発想すばらしいですね。柔軟性、静かなしんの強さを感じます。
○大賛成です。こんなデモっていいですね。私は声を上げるのが苦手で、ただただ歩くだけなのですが、これだったらいいな。友人にも話してみますね。
○肯定的な言い方で意味を伝えていくのはささくれ立った気持が落ち着くようでいいと思います。「反対、許さない」の言葉の中に、それがあるとほっとするはずです。
○我が家の小さな孫(男です)が、「おばあちゃん、あべさんはせんそうをやるの」ときいてきます。何と答えたらよいのか悲しくなります。憲法肯定だというアピールに賛同して、孫たちに不安を与えない社会であってほしいです。
○憲法9条が覆ろうとしている......息子が戦争に行く姿が目の前にちらつき、絶対にイヤだち思った。声をあげなければ! と思った。
○ずっと否定的な言葉を聞くのがしんどかったデモ。それがいいね!って肯定デモがあってもいいんじゃない? という言葉にホッとして、それやりたい! と思ったのでした。こんな提案を待っていた人、多くいるのではないでしょうか。
○国会前やら、集会のたびにコールしたくないなというフレーズがたくさんあって、自分なりに言い替えたり、ムニャムニャしてます。
○「憲法いいね」デモ、賛成です。ぜひ実行できたらいいですね。
○平和憲法いいね! 9条いいね! 主権在民いいね! ほんとにいいね! そうだね! 「反対」はすごくコワイひびきです。全否定。
最後の方の声は、「反対」という言葉に強い拒否反応を持っているのが分かる。それは違う、そんな意味で使っていないと言う人も大勢いるだろう。ぼくもそう思う。しかし、「反対」という言葉に拒否反応を持っている人が大勢いるという現実も認めなければならない。
安倍政権に底知れぬ怖さを感じる。何とかその動きをいろいろな方法で止めなくてはと思う。デモもそのうちのひとつ。デモはちょっと、という人々にも届くような、共鳴するような、肯定の呼びかけをしていきたい。正義を振りかざさない、怒りを叫ばない、集団示威行為ではない、穏やかなデモ。国会をとり囲むたくさんの声に、もうひとつの声を加えたい。