カベヤ(左官業)だった祖父は引退してからセメントで石灯籠を作っていた。木型に独自配合のセメントを流して固め、表面を日がな細かくノミで打ち、組み立てる。つまりセメント製のなんちゃって石灯籠なんだけれども、他のなんちゃって切り株やなんちゃって岩にくらべると良くできていて好きだった。しかし小・中学生だった私と2つ上の姉は休日になるとこれに悩まされた。なんでもかんでもカセットテープに記録していた時代である。ノミを打つカンカンカンという音がテープにも入ってしまう。聞き慣れていたせいもあるだろうし実際その音は心地良くすらあったので、録音するときに邪魔にならないのが悪かった。再生すると、遠くに小さく澄んだ音でカンカンカン、、、。しかし、「じいちゃん、やめて」とは言えなかったんだよなあと、『声ノマ 全身詩人、吉増剛造展』の会場・東京国立近代美術館で、自身の声による〈声ノート〉を中心とした膨大な数のカセットテープと銅板を打つ音と姿、柔らかい声、低い鼻と華奢な体に、祖父を思い出したのだった。
吉増さんの〈怪物君〉を見る。こちら側からすれば、みすず書房から出た『怪物君』という詩集の手書き原稿を見ているわけで、いったいこの"声そのもの"としか言いようのないひと続きの途方もない文字列を、冊子という一定の大きさのページを束ねる印刷物の原稿にどうまとめたのか、そのチャレンジというか思い切りを可能にした関わるひとたちの強烈な愛に圧倒された。展示を観るまではこういうものを本にする必要があるのかと思っていたけれど、それは本を埋める言葉がそもそも声であることをこちらがすっかり忘れていた証拠だろう。1984年に青森県の高校生に向けて吉増さんが話した言葉を、展覧会の図録からここに引用する。
〈これからはみんなが自分で自分の言葉なり表現なりを磨いて、演奏して、歌っていかなきゃならない時代がくると思います。その時にこれは忠告めいたことになるかもしれませんが、ぜひ話し方、の訓練をしてください。話し方の訓練をするということは、聞き方の訓練をすることなんです。一所懸命聞く、ということは、自分の声も一所懸命聞いて下さい。自分の話し方も一所懸命、最愛の他人の声だと思って聞いて、それを育て上げるようにして下さい。そうすることによって、そこに乗るものが、知識であろうとあるいは感覚的なものであろうと、その言葉という乗り物に乗れば、素晴らしい宝船になってゆく。〉