仙台ネイティブのつぶやき(15)森の植物園

梅雨の合間をぬって、久しぶりに近くの仙台市野草園に上ってみた。野草園は、大年寺山という標高100メートルほどの丘陵地にある。東京など南方面から新幹線で帰路に着き仙台到着というとき、進行方向に向かって左になだらかな姿を見せるのがこの山だ。山にはその名が示すように寺があり、伊達家の4代以降の藩主も眠っている。

園に入ると、まるで緑濃い夏山に入り込んだようだった。この日は30度近い気温だというのに、高い木が強い陽射しをさえぎり、生い茂る草が前日までの雨を抱き込んで、空気は湿り気を帯びひんやりしている。高いところで鳥がさえずる。もちろん園をめぐる道は整えられているけれど、細い道は両側から伸びる草をかきわけるようにして進んだ。

「ハギの丘」「どんぐり山」と名づけられたエリアを歩き、目にしみるような青いエゾアジサイや白く浮き立つヤマアジサイを眺めた。ところどころに小さな池がある。とうに花の終わったあやめ池には、ザリガニなのか何やらうごめく生きものの気配。沢の近くに設けられた水琴窟の前でかすかに響く鐘のような音を聞き、斜面を上がって高山植物の植えこまれたエリアをめぐった。

子どものころは、家に近いということもあってよく遊びにきた。春は池でオタマジャクシをとり、秋は萩のトンネルをくぐる。ドングリを拾ったり、うねりのある芝生の上を走り回るのもおもしろかった。

あのころは園の拡張期で、こっちにロックガーデンができた、湿っぽい沢水が流れるところに水琴窟という不思議なものができた、と園の地図をじぶんの頭の中で広げていった。その地図はすっかり雲散霧消して、迷いながら山道をあっちこっちふらふら。大丈夫、クマと遭遇することはないんだからとじぶんにいい聞かせていると、おっと!細い道で鉢合わせしたのは、猫だ。

園を取り囲む網のフェンス越しに、住宅街の屋根が見える。大年寺山の上には3基のテレビ塔がそびえ立つし、急峻な斜面には団地が造成されている。20年ほど前にはマンションも建設された。なのに、ここだけは深い森。よくもまあ、ここにこうした植物園をつくり、守り続けてくれたものだという感慨が湧いてくる。

山の地形をそのままに、近郊の草木を移植して野草だけを集めた植物園が開園したのは昭和29年(1954)のことだった。そこには、戦中戦後の仙台近郊の山々の荒廃に危機感を抱いたある学者の強い思いがあった。化学者でのちに仙台名誉市民にもなった加藤多喜雄さんだ。仙台では加藤4兄弟として知られた学者一家のご長男で、次男の愛雄さん、三男の陸奥雄さん、四男の磐雄さんともに理学者でありながら、仙台の戦後のまちづくりにも注力された。加藤多喜雄さんのこんな文が残っている。

「戦後、仙台の野山の荒廃はあまりにもひどい。近郊の山々の立ち木は惜しげもなく次々と切られ、開墾されて畑地となり、あるいは宅地と化し、昔日の面影はどこにもない。戦前に愛でた野山の草花はブルドーザーに掘り起こされ、あるいは踏みにじられ、わずかに生き延びた野草は、水辺を求めて畑地や宅地の片隅に呻吟している。これら貴重な山野草をいまにして保護の手を差し伸べないと絶滅するおそれがある。仙台の自然を守るために市は応分の力を貸して欲しい。」(『野草園春秋』河北新報社)

加藤4兄弟は博物学者だった父親に連れられ、子ども時代から仙台近郊の山々を植物採集に歩いたと聞く。おそらく、人が手を入れながら維持する二次林の健全な姿と、モミとイヌブナが生い茂る仙台地方の極相林の姿、そしてそこに育まれてきたかわいらしい山野草の数々を、しっかりと眺めからだに刻みこんでいたのだろう。加藤さんは当時の市長に直談判し、地すべり地帯でもあったこの山への野草植物園の設置にこぎつけた。

賛同して協力を惜しまなかったのは、みんな明治生まれの人々だ。彼らは、仙台の街を取り囲む丘陵地の豊かな森の姿をじぶんの中に基準として持ち、戦時中の森の伐採や戦後の宅地開発をそれに照らしあわせながら、これはまずいと眺めていたに違いない。
 仙台市内、また宮城県内のあちこちから山野草が採集され、ハゲ山にモミをはじめとする樹木が植えこまれ、それには宮城県の農業高校の生徒たちも一役買った。

60年が経ったいま、9万5千平方メートルの園には、約1000種が根づいている。植えられたとき高さが2メートルにも満たなかったモミは、天を突くような高さに育った。ゆっくり歩くと、希少種の山野草を目にするだけでなく、私たちが雑草として片づけている植物の名前も教えられる。当時、県内の山を踏み分けて一種でも多くと植物採集に歩いた人たちの熱意を思わずにいられない。

それにしても、自然園としての強い性格を持つ植物園を維持管理していくのは難しいと痛感させられた。園は、私が子どものころの印象とはだいぶ違っている。それは樹木が高さ、樹勢ともに増し、植物が群落に育っているからだろう。森の遷移が進み深い森になれば、その下に育つ草が影響を受ける。そこが、バラやチューリップのような栽培種だけを植え、人が100パーセント管理化におく植物園とは決定的に違う。自然の森は動き続け、とどまることはないのだ。

高山植物区で、麦わらぼうしをかぶり一心に手入れをする女の人がいた。きびしい環境で育つというコマクサが数株、ピンク色の花を咲かせている。たずねると、「花を咲かせる株もあるし、あたりにはもう種が散らばっているから、それを傷めないようにしながらほかの草を抜くんです。そういうところがいっぱいあって追いついていなくて」という。どこまで手を加えるのか、手を出したり引っ込めたり、園の方たちは悩みながら仕事ではないのだろうか。自然にどう向き合うか。野草園は、私たちにそのかかわりのあり方を問いかけてもいる。