隣や近所のアパートから湧き上がるような叫び声が上がるのは、イタリアとスペインがヨーロッパ杯のサッカー試合をしているからです。イギリスの国民投票の後で、ヨーロッパ杯に熱狂する彼らを、少し不思議な心地で見つめる自分に気がつきます。イタリアに住み始めた頃は、未だ通貨がリラでしたから、今とは全く違った経済構造でした。今より閉鎖的だったとも言えるし、それなりに自己充足していた気もします。あの頃よりイタリアが特に豊かになった実感はあるかと問われると、よくわかりません。
ユーロが通貨として使われだしたころより、イタリア経済の価値観が、ヨーロッパの他国に把握しやすくなったのは確かでしょう。常に他国の経済との比較を強いられるのは、コンピュータで営業成績を監視される社員のような緊張感を、常に強いているとは思います。外国人が増えたかと言われれば、中国人は確かに増えましたが、それ以外は20年前と今とあまり違いはない気もします。
友人宅で頂いた桜んぼが美味で、どこで見つけたのか尋ねると、近くの中国人街に2軒だけ残る、イタリア人経営の八百屋でした。その主人曰く、現在では余程上質の商品を手に入れなければ、スーパーや中国人の商店には太刀打ちできないとこぼされたそうです。
文化面でも、それに近い精神的な圧迫を感じることはあります。種を蒔いて水をやり、出来るだけ陽に当てて育てようという姿勢から、何時どの程度の結果が期待できる、という期待値カードを首にぶら下げつつ、目に見える結果にばかりに、心を砕くようになった気がするのです。
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6月某日
マントヴァに朝早く出かけ、アルフォンソとフィリデイの話を聞く。「ピアノは動物のようだ。尾があり脚があり、鍵盤はさしずめ口を開けて歯が並んでいるよう。かかる動物に発音させたらどうなるか、撫でたらどう反応するか想像することから曲ができた」と言い、まず作曲者が演奏し、その後でアルフォンソが演奏する。作曲者が軽やかに演奏すると、鮮やかに動き回る動物の姿が生まれ、アルフォンソが丁寧に演奏すると、書かれている音楽が蘇るように感じられた。
昼前に家人と水谷川さんがマントヴァに着き、音楽祭の会場で昼食を摂っていると、トランペットのアンジェロ・カヴァッロに出会った。彼と一緒にアデスの演奏会をやり、ガスリーニの録音も一緒だった。先日はアルフォンソが、レッチェからの夜行寝台で偶然彼と同じ部屋になって、話が弾んだと聞いたばかりだった。
夕方「ピザネルロの間」で水谷川さんが演奏会の準備するのを眺めていると、肩を叩いて「ブルーノの息子のジョヴァンニだよ」と声を掛けられた。見るとカニーノの長男ジョヴァンニで、ちょうど連休だから子供を連れマントヴァの近くに宿をとり観光していて、偶然通りかかったと云う。結局面白がって演奏会まで聴いてくれる。
水谷川さんの演奏は、まるで空間に音が自然に広がってゆくようだった。開け放たれた窓から、演奏会の前半は鳥のさえずりが聴こえ、後半は葉を叩く驟雨の音が、彼女の音と美しく絡み合い、響きあった。そして、ほんの半世紀ほど前まで忘れ去られていたピザネルロの「トリスタンとイゾルデ」のフレスコ画、亡骸の累々とするトリスタンとランスロットの生々しい戦闘の場面は、無数のうめき声を絞り出すようにも見え、フィリップ・ニコライが黒死病の吹き荒れるなか「目覚めよと呼ぶ声あり」を書いた姿を、文字通り二重写しにしていた。
6月某日
「ヴェルディの家」に寄宿しているメキシコ人の生徒の誕生日祝いに食堂へ出かけた。「正統派ミラノ風カツレツ」なるメニューがあって何かと尋ねると、伝統的なレシピに沿って、牛肉を叩いて延ばしたものをバター油で揚げてあると云う。食指をそそられ頼んでみると、実に濃厚な味で美味ではあるが、繰返し食べられない。
パルマから通うシモーネが、レスピーギの「古風な舞曲とアリア」を市立音楽院のレッスンに持って来る。終曲のロンカルリは、ヴィジェーヴァノのロンカルリ基金と関係あるのかと気になって調べると、ヴィジェーヴァノは教皇の名を冠しただけで、作曲家のロンカルリとは無関係だった。シモーネが端正に音楽を纏めようとするのを、敢えて引留める。レスピーギとして演奏するなら、ファシズム建築の中央駅のような巨大なモニュメントを描くべきだろう。外人だから率直に言わせて貰えば、ダンヌンツィオでムッソリーニでしょうと話すと、少し困った顔をしながらも納得したようだった。レスピーギの編作を中世音楽として演奏してしまうと、根底にある時代背景が覆されてしまう。嫌いな部分を黒塗りにして目を瞑ってしまうと、本来音の裏側にあるべき息遣いが消されてしまう気がする。
6月某日
指揮科の学生の大学卒業試験。朝から先ずオーケストラとの試験があって、午後は小論文の口頭試問。小論文は各自、卒業試験に選択した作品について、何某か書かなければならない。
全員判で押したように「このように高名な作品を演奏する上で、自らの方法論を見出すことは大変難しい」と書いていて、インターネット世代の学生が名曲を演奏するのは、寧ろ先入観が先行して我々の頃より大変かも知れないと思う。そのうち二人は古今の指揮者の名演の演奏時間のリストが連綿と添付されていて、ところで今朝の自分の演奏時間は知っているのと思わず尋ねてしまった。自分はこの曲で何をどうしたい、何故なら自分はこう思うから、という素直な発言を望むのは、情報が氾濫する現在に於いては成立しえない理想論なのだろうか。
全てが終わって、生徒らが持ち寄ったシャンパンを開けて祝杯。
6月某日
息子を近所の喫茶店に預けて、小学校最後の通信簿を受取りにゆく。担任もクラスも5年間ずっと一緒だったし、息子には事あることに本当に好くして頂いたので、万感の思い。
息子を劇場に送ってゆき、そのまま彼が出演する「子供と魔法」を母と一緒に観劇する。気が付けば、まるで子供に戻ったかの錯覚を覚えた。全てが瑞々しく胸躍らせる、子供の頃の感受性に身を委ねる。バルコニー席から身を乗り出して見入っている母の背中の向こうに、息子たちの舞台を眺めていて、曲尾で主人公が「おかあさん」と歌ったところで、思わず涙が零れそうになる。
6月某日
家族と連れ立ち、久しぶりにレッツェノの漁師食堂へ出かける。食後、コモ行きのバスまで一時間程余裕があって湖の畔に降り、老人が釣り糸を垂れる姿をじっと眺める。アルボレルラというウグイ科の小魚が、目の前に何百何千と群れていて、先ずそれをサシ餌で釣ってから、アルボレルラを生餌にして鱒を狙う。老人に言わせると、「ここらの食堂ではラヴァネルロというスズキばかり食べさせるが、あれは苔やら水草を食べているから不味い。鱒は何といっても小魚しか喰わないから、身の味は格別だ」とのこと。
夕立が降ると予報でも言っていたが、空を見上げると、果たしてシュプルーゲン峠の辺りから、深い銀色に空が染まり稲光も差してきた。その昔、空を覆う雲をとばりに譬えたのは、見事な表現だと独りごちながら、まるで山水そのものの眼前の絶景に言葉を失う。
6月某日
音楽院で一日指揮のレッスン。何時も伴奏してくれるマルコの替りに、今日はパレルモ生れのエーリアが代理を務めた。彼は子供の頃からパレルモのマッシモ劇場の児童合唱団で歌っていて、ソロも任されたそうだ。ボエーム2幕の「ラッパとお馬さん頂戴よう!」をやらせて貰えたのが嬉しくて、と笑った。三度の飯よりオペラが好きで、ピアノで卒業資格を取った翌年バリトンでも卒業資格を取った。驚く程初見が出来るのだがピアノは独学のまま18歳まで教師について習ったことすらなかった。イタリアにいると、日本では一寸想像すらできない音楽家と出会うことがある。
ソルビアティに誘われて、ドゥオーモ脇の900年代美術館でモナルダのギターリサイタルに出かける。ガスリーニの「夜明け10分前」が演奏されたので、未亡人のシモーナ・カウチャも来ていた。70年代、シモーナはラウラ・アントネルリと並んで雑誌の表紙を飾っていたが、女優としては映画より寧ろ演劇で活躍したと聞いた。演奏会後シモーナから「この後ダルセナで、バッシさんが出したばかりの主人の伝記の発表会があってね。是非貴方もいらして下さらない?」と誘われる。バッシには、つい先日「天井桟敷友人会」で我々のCDの紹介をして貰ったばかりだったし、ソルビアティと暫く仕事の打合せの後で、合流する約束をした。
「ル・トロットワール・アラ・ダルセナ----係留地の歩道」は5月24日広場の昔の税関跡を造り替えたバーで、バッシの本の紹介は流行作家アンドレア・ピンケットが、モンダドーリから出版した小説の宣伝と抱合せになっていて、一面ピンケットのファンで溢れ返っている。40分ほどピンケットがあれこれ話している間中、我々のテーブルでは、一体どういうことになっているのか、不平不満が噴出していて、特にシモーナはすっかり気分を害して、今にも席を立とうかという勢いだった。漸くバッシの番になったかと思いきや、蚊の鳴くような繊細な声な上に、真面目腐った紹介を始めたものだから、途端に観衆は興味を失って騒ぎ始め、最早収集が付かなくなったその時、「今日は特別なゲストを招いております。ガスリーニ夫人のシモーナ・カウチャさんです」、と突然シモーナに助けを求めた。
目の前のシモーナは、突然別人のように凛とした女優のオーラを放って、すっと壇上へ向かった。すると、それまでの喧騒が嘘のように静まり返り、誰もが彼女の言葉に聴き入るではないか。見事な演技だった。彼女はガスリーニが毎日10分の音楽を書き上げることを習慣にしていた話をし、作品が出来上がると間髪入れずに、すぐに次の作品を手掛けていたこと、シェークスピアの戯曲を全部読み切ったことなどを絶妙に語り、壇を降りるときは喝采を浴びた。
席に戻った途端「さあ行きましょう」と促され席を立ち、そのまま近くの路面電車に飛び乗った。未だ人いきれの「ル・トロットワール」を路面電車で通り過ぎながら、「何て酷い一日なの。わたし本当に悔しいわ」と目を潤ませながら呟いた。
6月某日
夕刻、アルフォンソと連れ立ってソアヴェ通りの「音楽倉庫」で、ガスリーニのCDの紹介に出かける。プレゼンテーションの前、置いてある楽譜の中にすっかり草臥れたアロイス・ハーバの9重奏の古いポケットスコアを見つけて、思わず買った。10ユーロ也。
昨日会ったばかりのシモーナとアルフォンソ、それから出版社のガブリエレと4人で座談会。シモーナ曰く、ガスリーニの仕事机の上は、まだ亡くなったときのままで、何も手を付けられないという。読みかけのジョイスと、ブリテンの楽譜が開いたまま。当日CD会社が用意したCDはほぼ完売したと聞いた。
その後、アルフォンソの友人リッリと、劇団俳優のDとカクテルを呷りつつ話し込む。カクテルらしいカクテルを飲んだのは何十年ぶり。リッリは、ミラノの国立音楽院付属音楽高校設立当時から長年物理を教えていて、アルフォンソどころか、ミラノの我々の世代の音楽関係の友人の大半が彼女の生徒だった。彼らの子供時代の話を懐かしそうに話した。一方、昔のヒッピーのような風貌のDは、アルフォンソの親友で中学の同級生だが、アルフォンソも現在Dが何をしているのかよく知らない。演劇の俳優をしているのは確かだが、彼女はヌードモデルだし、Dも食い扶持のためポルノ男優をやっているようだと予め聞いていたので、どんな話をするのかと思いきや、シェーンベルグの作品19とロンコーニの現代演劇論について、それから現在の経済構造の中、アングラ新演劇を実現する困難について滔々と語り、実に話し上手だった。劇団俳優が最初に何を学ぶことは何かと尋ねると、「それはダンスだ」と答えた。身体を空間に解放すること。言葉云々はそれからだという。特に「舞踏」が彼にとっての演劇の原点だという。どんなポルノ男優なのか知らないが、興味深い。
6月某日
息子を合唱に送って行き、帰りしな、何年も通り過ぎるばかりだった教会に足を留める。合唱の練習場からほんの50メートルほど、カッロッビオの古い教会跡には、フランチェスコ・メッシーナの彫刻ばかりが展示されている。ずっと気になっていたのだが、いつも閉まっていると思い込んでいただけで、単に勘違いだった。73年にミラノ市がメッシーナにこの古い聖シスト教会をアトリエとして与え、メッシーナの没後そのまま市立メッシーナ美術館となって現在では100点以上の作品を有す、とある。
ブレラの学長まで勤め上げた彫刻家が、生涯のアトリエとしてこの古い教会の使用許可をミラノ市に提示し、その替り、朽ちかけていた教会の内装を自ら改装し、死後この中の自らの作品をすべて市に寄付する、という条件を持ち掛けたという。余り彫刻を鑑賞したことがなくて、どういう観点で何をみればよいのか、ずらりと並んだメッシーナの作品を眺めながら少しだけ戸惑った。どれも驚くほど表情が澄んでいて、目に焼き付いて離れない。どの作品も凛としたまなじりと、躍動感あふれる表情が印象的だが、特にムッソリーニ政権下、メッシーナが作ったムッソリーニの娘婿チャーノとエッダ・ムッソリーニの胸像を紹介する写真など、一緒に写り込んだエッダもメッシーナもそのどこか飄々とした表情が愉快ですらある。
父親の反対を押し切りユダヤ人の夫と結婚し、父親によって夫を殺され、その父親も市民によって殺された、普通想像もできない数奇の人生を送った男勝りのエッダは、ポーズを取りつつ冗談でも言っていたようにも見える。彼らの胸像の表情のぴんと緊張した美しさ。
メッシーナがジェノヴァで墓石彫刻で生計を立てていた若かりし頃、未来派のマリネッティに大いに影響を受けたと読み不思議に思う。ファシズムの台頭へと向かうダイナミズムに憧れる、そういう時代だったのだろうか。帰宅して思わず、生前のエッダのインタヴューをインターネットで聴く。隣の部屋からは、1920年にカセルラが書いた「11の子供のための小品」を、息子が練習している音が聴こえる。
(6月29日ミラノにて)