ユーロ2016

私の父は、酔っぱらうとよく家に客を連れてきた。今から思えば、自慢の息子(?)を見せたかったのだろう。ただ、子どもの僕としては、父が帰ってくるのを楽しみに待っているのに、知らない人がやってきて、愛想笑いをしなきゃいけないのがすごく嫌だった。

さらに、悪いことに、客人に「お土産」を持たすのだ。相手に同じような子どもがいれば、昨日父が私にくれたはずのお土産を渡している。どこにでもいい顔をして、収拾がつかなくなる。。そんなおやじを思いださせたのが、ヨーロッパの難民問題。

ドイツも人道的に受け入れるといってみたものの110万人もの難民が来てしまい、悲鳴を上げてトルコに追い返す羽目に。イギリスは、移民や難民を受け入れるのをいやがりEUから離脱してしまった。ドイツと違って、デンマークは、早々にくぎを刺した。1月26日、難民申請をした者に1万クローネ(約17万円)を超える現金や所持品がある場合、徴収して難民の保護費用に充てるという法案が、デンマークで可決されたのだ。

デンマークといえば、かつて私たちが支援していたイラン系クルド難民の家族が暮らしている。最初のグループは、イラク戦争の時にヨルダン国境に避難したクルド人。イスラムとは異なるカカイという少数派で1980年代にイランから迫害され、イラクの難民キャンプで暮らしていた。イラク戦争で、イラン寄りの政権ができるとさらに迫害を受けヨルダンに逃げようとしたが、国境を閉ざされ、イラクとヨルダンの国境に挟まれたノーマンズランドで暮らしていた。

アザッドは、その中の一人だったが、お金が必要だったので、米軍の通訳として雇われた。それでファルージャのオペレーションに連れていかれたが、テロリストの襲撃を受けた。その時ハマーという軍用車の中で4人の米兵に挟まれていた。「隊長は、銃を渡して、『これで守れ』といってきた。僕は、そんなのは初めてだったので、できませんといったんだ。基地に戻ってきたらキャプテンに怒られた。なんで撃たなかったんだと。それで、100周基地を走れといわれた」

そうこうしているうちに、国境の難民たちは、デンマークが受け入れることが決定された。アザッドは、乗り遅れてしまった。米軍の通訳はこりごりだと思って、国境に戻ってきた時は遅すぎた。仲間たちはヨルダンの難民キャンプに移されデンマーク行の準備をしていたのだ。しかし、アザッドは転んでもただで起きるようなやわな人間ではなかった。米軍に頼んで、ワールドパスポートを発行してもらったという。

ワールドパスポート? アザッドが嬉しそうに、写真を送ってきたが、私はそんなパスポート見たことがなかったし、国連の友人に聞いてもそんなの見たことないという。なんか、だまされているんじゃないかと心配していたが、2013年に、彼は、そのパスポートでまんまとイラクを抜け出しデンマークにたどり着いたのだ。

再会したアザッドはすっかりと立派な青年になっていた。コペンハーゲンの市役所で、難民相談のアルバイトをし、ちゃんと税金を払っている。デンマーク人として生まれ変わったかのようだ。「デンマークは素晴らしい国。民主主義があるから、未来がみえる」

アザッドに連れられてデンマークとドイツの国境の町に行くことになった。そこには、最近たどり着いた難民が収容されているセンターがある。デンマーク政府が彼らに市民権を与えるかどうか判断するまでの間収容されるのだ。彼の両親や兄弟が昨年トルコからゴムボートに乗ってギリシャにたどり着き、そこから陸路でデンマークに到着し、このセンターで暮らしていた。ブローカーに大体一人頭30万円払ったというから、それ程吹っ掛けられているわけでもなさそうだ。だからこそこれほどまでに大きな移動があったとだろう。うつ状態が続いていたお母さんもすっかり元気になり、デンマークについてから初孫も生まれた。なんだか、本当に幸せそうだった。

とかくシリア難民といえば、もう何でも許されるような風潮があり、それに便乗して多くの難民がヨーロッパに来てしまった。彼らの中には、自分だけが助かればいいと思っている人もいて、「逃げた人」というレッテルが張られてしまう。

一方アザッドのような国を持たないクルド人は、生まれたときから難民としてさまよい続けている。ようやくデンマークに市民としての居場所を見つけたのだ。これからは、デンマーク市民として生きていく、そんな希望に満ち溢れていた。