祖父のアパート

 母方の祖母の家から銭湯までは歩いて十分ほどの距離にあった。私がまだ小学校に上がったばかりの頃、昭和四十年代の半ばだが、その頃には毎日毎日風呂に入る家は少なかった。二日に一度、三日に一度、銭湯に行く程度が普通だった。汗をかいてどうしようもない日はたらいの中で行水をするか、炊事場の流しに頭を突っ込んで髪の毛を洗った。家に風呂もなかったし、毎日銭湯に行くのも家族四人だとそれなりに金がかかったからだ。
 祖母の家は私の家から自転車で十分、歩いて三十分ほどの所にあった。両親は共働きだった。学校帰りに、どちらも自宅にいないという日があり、そんな時には学校からそのまま祖母の家に行き、父か母が迎えに来るのを待った。
 私は祖母の家に預けられるのが嫌だった。当時、祖母の家は大人の出入りが多く自宅のようにはくつろげなかった。そして、そこへ父が迎えに来ると、祖母や周囲の人たちが酒肴の用意を始め、早々に父が酔い始めるのだ。
 酔った父は普段気が弱い分、とても気が大きくなった。そして、母方の実家で飲んでいるということが、父にとってもはちょっとした緊張になっていたのか、いきなり母に向かって「おまえはどっちの味方や」と声を上げたり、諫めに入る母の弟の言葉に泣き声をあげたり、私としては一番見たくない父の顔がそこに出来上がるのだった。

 元日のことだった。大人たちは朝から酒を飲み、怒鳴り合い、喧嘩をして、歌い、踊った。そして、大半の男たちはそのまま寝込み、ほとんどの女たちはしっかりとした足取りで片づけものをした。それが済むと、女たちは男たちと一緒に寝込んでいる子どもたちを起こして回る。自分の子どもも甥っ子もない。子どもと一括りにされた子どもたちが起こされ、「風呂行くで」というかけ声で外に出るのだった。
 大人の女は母とその姉妹たち。子どもはそんな姉妹の息子や娘が幼稚園児から高校生まで総勢六人ほど。私たちは祖母の家から、銭湯に向かって歩き始めた。元日だというのにそれほど厚着をせずに出かけた。それでも、さほど寒いと感じなかったという記憶しかないのは、大晦日からの不規則な寝たり起きたりで、体温の調整がうまく行っていなかったせいではないのかと思う。子どもたちはみな冬だというのに、結構な薄着で銭湯へと向かっていた。
 すると、母がふいに足を止めた。つられて、みんなが足を止める。大人の女たちはすぐ右手にあるアパートの二階に目を向ける。アパートは二階立てて、二階でも灯りがついている部屋は一つしかない。そこは祖父が住んでいたアパートだった。以前にも何度か来たことがある。このアパートの部屋には祖父の他にもう一人の祖母も居て、僕たちが行くとおやつを出してくれたりして、歓待してくれるのだった。そんなことを思っていると母が言う。
「おじいちゃんにお年玉もらっておいで」
 私たちは歓声をあげて、アパートの階段を駆け上がると祖父の部屋のドアを叩く。いま思うとあれは母たちの祖父に対する嫌がらせだったような気がする。祖母の家から、銭湯に通う途中にわざわざ女と住んでいる祖父への嫌がらせだったに違いない。おかげで、祖父は元日の夕方、大勢の孫に急襲されるという羽目に陥ったのである。
「ようきたな。おめでとうさん」
 祖父はそう言ったが明らかに動揺していた。それでも、ちり紙で千円札を一枚ずつ包んで、急拵えのぽち袋を作って私たちに配ってくれた。
「ご飯食べていく?」
 祖父と一緒にいるもう一人のおばあちゃんが聞く。
「下でお母ちゃんが待ってるから」
 そう言うと、もう一人のおばあちゃんは少し緊張した面もちになり、
「私もお年玉包むわ」
 そう言って、祖父と同じようにぽち袋を作って孫たちに渡してくれるのだった。
 私たちは礼を言って祖父の部屋を後にすると、戦利品であるぽち袋を自慢げに母たちに見せた。
「おじいちゃん、千円くれはった」
 私がそう言うと、母は笑いながら、
「そらよかったなあ」
 とアパートの二階を見上げる。
「それから、おばあちゃんも千円くれはった」
 私がそう言うと、母は私をにらみつけた。
「ちゃう。あの人はおばあちゃんと違う。今井さんや」
 母はそう吐き捨てるように言うと、銭湯へ向かって歩き始めた。私たちは祖父と一緒にいるおばあちゃんが、急にただの歳をとった女性のように感じられた。そして、その人が今井という名前なのかと、頭の中で繰り返した。
「おばあちゃんやない。今井さんや」
 私はそう繰り返しつぶやきながら母たちの後を銭湯に向かった。

 それからも祖父は別れたはずの祖母の家に神出鬼没に現れながら、毎日毎日酒を飲んで暮らした。
 数年後に亡くなると、祖母の家で盛大に葬儀をしてもらった。そして、祖母の家系の先祖代々の墓の隣に、墓まで建ててもらって供養されているのだ。
 私は祖父のことを幸せな人だと思うのだが、祖父自身がそう思っているのかどうかはわからない。そして、その後亡くなった祖母が本当に祖父を許していたのかどうかもわからない。
 私がなぜそんなことを考えるのか。それは、いまから十年以上前に、祖父と祖母の子どもたち、つまり私の母とその兄弟たちがなにを考えたのか、隣り合って建っている祖父の墓と祖母の墓を眺め、「隣り合っているだけではかわいそうだ」と言い始めたのだ。そして、知らぬ間に二つの墓の骨を少しずつ隣の墓の骨と混ぜたらしいのだ。
 それ以来、母方の親戚筋に悪いことばかりが起こるのだった。祖父か祖母、どちらかがあの世で機嫌を損ねているようにしか思えないのである。(了)