仙台ネイティブのつぶやき(16)峡谷に下りる

 トラックの荷台で右に左に揺すぶられながら、山道を10分ほど走ったろうか。唐突にエンジンが切られ、降ろされた。まわりに数台の車が停まっているのを見ると、ここから徒歩で現地に向かうらしい。まわりは夏山のむせかえるような緑、緑、緑。樹々の勢いが増している。

「じゃ、ここから下るよ、ついてきて」という高橋一幸さんのひと言に驚いた。えっ、ここ? のぞき込むと、下は崖だ。かなり急峻な斜面で、とても下りられるとは思えない。一幸さんは少しも躊躇せずに下り始めた。「危ないから、必ず木につかまって。あとはロープがあるから、それたよりに」 見ると70〜80センチきざみぐらいで結び目をつくったトラロープが下がっている。

 足場を確かめながらゆっくりゆっくり下りていくと、みるみる気温が下がって、ひんやり湿った空気に包まれた。峡谷の底では6、7人の男性が、手に手にスコップや鍬をたずさえ、黙々と川床の土砂や石を撤去する作業を始めていた。

 ここは宮城県北西部の鳴子温泉鬼首。ブナやナラなどの広葉樹林におおわれた山間地で、もうひと山越えると秋田だ。以前にもこの地で暮らしてきた古老、高橋敏幸さんのことを紹介したけれど、私は機会があると共同作業などを見に、鬼首の中でも北西に位置するこの地を訪れてきた。ちなみに一幸さんは敏幸さんの息子さんである。

 この沢は仙北沢とよばれ、源流は秋田県側。とうとうと流れる清らかな水は、戦後、山林を切り開いてつくられた1キロほど下にある大森平の米づくりに使われている。沢の水を堰き止め、その脇から約800メールほどの隧道を大森平までうがって水を流しているのだ。大森平の7軒の家の20町歩ほどの田んぼの米づくりは、この水に頼っている。

 堰き止めた川の底に石や土が堆積すれば、大森平へと流れる水は減少する。だから1年に一度、7軒の家の男たちが峡谷に下りて共同作業を行う。見るとみんな胴長を身につけ、工具を振るって川床の石や土を払い、ひと抱えもふた抱えもあるような巨大な石は、「せいのっ」と掛け声をかけて堰の下へと落とし込んでいる。あらためて、ともに働かなければ維持できなかった山の暮らしを教えられる。

 20メートルほど先には、高さ7、8メートルの砂防ダムが築かれ水は白いしぶきを上げて滝のように落ちてくる。流れの急なこうした上流部では、こうやって途中堰き止めないと、ひとたび大雨になったときに一気に水かさが増して峡谷の斜面に大きな被害が及ぶらしい。いつの間にか私も水に誘われて、スコップを手に石の撤去に加わっていた。

 それにしても、この大きな石はまわりの斜面から転がり落ち、あるいは上流から流されてきたものなんだろうか。それが流されるうちに砕かれ、川床を埋め尽くすのだろうか。なんとダイナミックな川の営みだろう。この圧倒的な力に一人ではとても抗しきれない。何人かが共同で集中して作業をしなければ、人の営みなど簡単に押し流されてしまいそうだ。

 作業に加わって2時間ほど。誰もが暗黙のうちに作業の持ち分を定め、黙々と集中するうちに川のようすはみるみる変わってきた。石が撤去され川床の凹凸がなくなるにつれ、水の流れはすべらかになり、流れは速くなっていく。人の力の何とすごいことか。

 ときどき、「いたぞ!」と声が上がる。イワナだ。あっちにもこっちにもイワナは棲息していて、逃げ場所を失って逃げまわる。小さなものは放してやるが、大きく育ったのは今日の作業のごほうびだ。

 やがて泥の撤去は、隧道の中へと及んだ。身をかがめないと進めないほどの高さで、巾は90センチくらいあるだろうか。体積した泥でずぶずぶと沈み込む足もとに注意しながら入り込み、小さな灯りで中を照らして息をのんだ。固い花崗岩の壁面にノミの跡が鋭く残り、それが奥までずっと続いている。これがずっと800メートル連続しているのだろうか。

 話には聞いていた。岩盤の工事を請け負った業者が匙を投げ、ダイナマイトの使用もあきらめ、開拓民の中の3軒の農家がタガネで掘り進んだのだと。何としても米づくりをという執念の作業だったろう。両側から掘り進み、最後の一打ちで岩に穴があき水が通ったときのよろこびを、作業にあたった一人、大場新喜さんが書き残している。

 60年が過ぎ、開拓の12軒の農家は7軒となり、いまは休耕田も増えてきた。それでも米づくりは続けられている。山間地の中に別世界のように広がる田畑に立つと、食べ物に事欠くような生活を続けながら、決して途中逃げ出さなかった農家の結束と思いの強さに圧倒されてしまいそうだ。

 12時。集会所でおかあさんたちが用意してくれた豚汁とお弁当にありついた。おいしい。汗をビールでぬぐった男たちは、午後の作業に備え、食べ終えると早々と昼寝態勢。ぐうぐうと眠り始める。

 作業日を決め、段取りを決め、昼ごはんの手配をし、工具を整え、毎夏、峡谷に下りる。ここで暮らしていくために繰り返されてきた、大切な営み。集会所の壁には「開拓者の記録 新しいむら誕生の記録」という長い扁額が掲げられてあった。