ふたつ並んだ墓

 久義丈治郎と高梁すえは第二次大戦が終わる直前に結婚した。食べるものにも事欠く生活のなかで、たがいに一緒になれば少しは食べ物を融通してくれるだろうと思っていた、というのだから呑気というのか考えが浅いというのか。
 しかし、同じ程度に貧しかったからこそ、思惑がはずれても互いを責めることも恨むこともなく傷をなめ合うように暮らすことが出来たのかも知れない。
 二人の営みは三男四女をもうけて苦しいながらも家庭というかたちをこしらえたのだが、丈治郎が五十を迎える頃に彼の浮気によって崩壊した。今とは違い、男の浮気には寛大な時代ではあったが、さすがに家族で暮らしている、わずか数軒先の文化住宅に愛人と居を構え、しかもその愛人が妻すえの古くからの友人となると話は変わってくる。
 二人はきっぱりと離婚して、同じ市内の同じ町内に暮らし続けた。丈治郎はもともと大らかというのか、深く考えないというのか、ときおり突拍子もないことをしでかす性質をもっていたのだが、離婚して愛人と暮らしはじめても、すえと子どもたちが暮らす、もともと自分が建てた家にしょっちゅう現れた。
 最初のうち、すえは丈治郎がやってくると家を明けたりしていたが、途中から口は聞かないまでも、顔を合わせても平気になり、子どもたちなどは「お父ちゃん」と呼びながら、「また来てね」と送り出すようになった。
 しかし、そんな丈治郎も酒と煙草のやりすぎが祟ったのか、七十を迎える直前に亡くなってしまった。すえは丈治郎の葬儀をきちんと自分の家で出してやり、そのときに愛人を座敷にあげてやったまではよかったが、最後の最後、我慢が効かなくなり、村の焼き場に棺桶を運び出す段になって、嘆き悲しむ愛人を手厳しく言い込めて文化住宅に帰らせたことは後々まで語りぐさとなった。
 それから三十年近く生きたすえは大往生で逝き、それぞれに家庭をもった息子と娘たちは、父の墓のとなりに母の墓を建ててやることにした。「なんだかんだ言いながら、なかのいい夫婦だったんよ」という長兄の言い分が通ったというかたちだった。もちろん、兄弟の中には反対するものもいた。「いくらなんでも、離婚した夫婦がなんぼ墓に入ったからって、隣どうしはちょっと」というもっともな意見だった。
 しかし、そんな反対意見があったからだろうか。すえが逝って、十年が経った頃のこと。長兄がいらぬことをした。墓を隣どうしに建てるだけではなく、それぞれの遺骨をほんの少しずつ混ぜたのだ。
 ことの真偽は、長兄が亡くなったいまとなってはわからない。しかし、長兄に頼まれたという住職が「わしは反対したんじゃが」と近所のスナックでチーママ相手に話していたらしい。
 それから、久義の家にも高梁の家にもろくなことが起こらなくなった。怪我をする者、離婚をする者、事故を起こす者、病気になる者が続出し、ここ数年は若い者から年寄りまで不思議なほどに亡くなる始末だ。
 それでも、いまさら墓を動かしたり、遺骨をもとに戻したりすることもできないので、まだ存命中の息子娘五人は、主に母すえが眠る高梁の家の墓を念入りに拝むのである。(了)