ゆきみち

くぼたのぞみ

ゆきみちを
歩いてかえる
ちいさな家まで
ゆきふみしめて
靴のうらでふまれたゆきが
きゅきゅっと固まり
赤いゴム長 
パリンと割れる

ゆきみちを
歩いてかえる
ちいさな家には
山羊小屋もあって
小暗いすみで
生まれたばかりの
子山羊も眠る

大人たちの顔にまだ
ときおり笑みが浮かんだころは
ポプラの枝がかたかた笑い
重たい雪を抱く蝦夷松も
ひそかな燠を埋めていたよね

ゆきみちを
歩いてかえる
ピンネシリの山のむこうに
オーロラ色の陽が沈むまえに
いそいでかえる
切れかかるミトンの紐に
かじかむ指で
キーボードたたいて
走ってかえる
荒れくるう
暗い記憶のトンネル抜けて
消えかかる
ちいさな家へ

(2)シコ・ブアルキになる前、ぼくはカリオカだった

三橋圭介

ブラジルを代表する社会人類学者セルジオ・ブアルキ・ジ・オランダは、「ブラジルの根源(ブラジル人とは何か)(Raíze do Brasil)」(1936)の著者で、民族学者ジルベルト・フレイレや作曲家ヴィラ=ロボスなどとともに、ピシンジーニャ、ドゥンガなどのショーロやサンバ作・演奏家などと交流をもち、サンバがブラジルの国民音楽となっていく過程で重要な役割を果たした。そのかれと音楽を愛し、ピアノも演奏した妻マリア・アメリアの第4子として1944年6月19日、リオ・デジャネイロのサン・セバスチャン病院でフラシスコ(シコ)・ブアルキ・ジ・オランダは生まれた。

2歳でリオ・デジャネイロからサンパウロに引っ越し、8歳までそこに暮らした。シコはサッカーに熱中する普通の少年だった。カトリックの小学校にかよい、8歳のとき、父のローマ大学赴任とともに、家族でイタリアに移る。ローマに旅立つまえ、サッカー好きの少年シコは、祖母に宛てた手紙で将来「ラジオ・シンガーになる」と書いた。ローマでは学校でイタリア語と英語を学び、2年後の1954年にサンパウロに戻るとき、先生はこのように別れの言葉を述べたという。「あなたが成長したら、私はきっとF・B・オランダの書いた物語か小説を探すことになるでしょう」(実際、かれは後にいくつかの物語や小説を書き、名誉ある賞も受賞している)。サンパウロではカトリックの学校サンタ・クルス中学に通い、このときのリオ生まれということから「カリオカ」というニックネームを与えられる。

少年時代のカリオカは読書家で、大学入学まえにトルストイ、カフカなどを読み、とくにギアマランレス・ローザがお気に入りだった。しかし問題児でもあった。車を盗んだこともあるが、「不適切な行動」にたいしてメスがふるわれたのは別のこと。

14歳のとき歴史の教師の勧めで、独裁政権を支持する超国家主義の教会に入会する。教会に足しげく通い、ボランティア活動などを行う。しかし子どもらしさを失い、大好きなサッカーさえ止めてしまう。その狂信ぶりを心配した両親は、母の出身地のミナス・ジェライスの全寮制の学校に強制入学させる。当時の記録によると、母は次のように息子カリオカの様子について分析している。「簡単に影響され、秩序を乱し、目立ちたがる。現状では、協調性に欠け、年齢や状況にふさわしいものに関心をしめさない」。しかし、サンパウロに戻ったカリオカはサッカーや音楽好きの子どもに舞い戻った。

最初に音楽をきいたのはみんながバーバと呼んだ乳母ベネディッタ・モッタのラジオだった。それは家族が10周年を記念してプレゼントしたもので、そこからサンバやマルシャ、ボレロなどたくさんの音楽が流れてきた。なかでも「サンバやカーニヴァルの音楽が好きだった」。そのほかイズマエル・シルヴィアのサンバやカーニヴァルの歌、ポール・アンカやエルヴィス・プレスリー、ジャック・ブレルの歌を好んだ。その後「リトル・リチャード、エラ・フィッツジェラルド、フランク・シナトラ、またジャズではマイルス・デイヴィス、オスカー・ピーターソン、ミンガス、コルトレーンなどもきいた」。

「かれの音楽的なインスピレーションはどこからきたのか?」という問いに母アメリアは「生活の音から」と答えている。この時期、ラジオやレコードを含めメディアの発達と共に音楽が流行し、自宅には父の友人の外交官で詩人のヴィニシウス・モラエスがよく遊びにきていた。かれは子どもたちに物語や自作の詩や歌をきかせてくれた。そんな空気のなか、カリオカは多感な少年時代を過ごした。そしてボサノヴァがあらわれたとき、それはモダンなブラジル音楽として「自分の手の届く何か」だった。

1959年、15歳のときレコードでジョアン・ジルベルトの歌をきき、かれのようにうたったり、ギターを弾きたいと思うようになる。後年述べている。「カエターノ、ジル、エドに会ったら、みんな最初に『Chega de saudade』(1959)をきいたときのことをいう。ぼくの世代はジョアン自身よりジョアンのことを理解した世代だった」。ギターを手にしたときジョアンが先生だった。最初のギター(bossa velha)は姉のミウーシャから取りあげた。「(最初、)たぶん自分でコードを作りはじめていた。というのもジョアン・ジルベルトのギターを再現することができなかったからだ。ジョアンの演奏をきいた通りにやろうとしていた。でもまったく違って響いたが、無意識に作曲家になろうとしていた」。

高校時代、16歳のときに歌をつくりはじめた。そのとき「ギターよりも詩のほうがひどかった」。そのなかの「最悪の1曲、『Anjinho de papel』」は、「ジョアン風の歌にカトリック学校の影響をプラスしたようなもの」だった。最初に人前でうたったのはサンタ・クルス高校で、ギターを弾き、自作の歌をうたった。最初のころ自分の歌しかうたわなかったのは、うたうことができなかったからだ。サンパウロではパーティでみんながギターを弾きボサノヴァをうたっていた。かれは「ギターについて何にも知らないことを思い知らされた」。

当時、音楽で生活することなど想像すらしなかったし、そもそも、母アメリアは子どもが音楽家になることに賛成ではなかった。大学に行かなければならなかった。ヴィニシウスと同じく外交官なるか、それとも作家になるか、しかしどちらのコースも選ばなかった。医者でも技術者でもビジネスマンでもない。消去法により建築を選んだ。シコはニーマイヤーのモダニズム建築(ブラジリアの都市計画)に熱中し、建築家にあこがれた。それゆえ1963年サンパウロ大学(FAU)建築科都市計画学部に入学。しかし大学のカリキュラムより音楽に熱中した。

大学生活は学生センターで友人たちとギターを弾き、歌をうたった。グループの名は「samba」とアルコール臭い息を意味する「bafo」を合わせた「Sambafo(サンバフォ)」。翌年の1964年にクーデターが起こり、学生センターが閉鎖され、大学に行くのを止めてしまう(実際には1967年2月に退学)。実際、クーデターの前からかれは社会科学かジャーナリズムのクラスのある大学に編入しようと考えていた。「建築家になるなんて信じていなかった。ばくぜんとジャーナリストなりたいという考えがあったのは、書くことがすきだったからだ」(1973年の演劇「Calabar」のポスターの裏面に、緻密な想像の都市の地図を描いている)。しかし音楽への情熱がまさった。

その後すぐ、9歳の夢の通りラジオ・シンガーとなった。ラジオ・アメリカの新しい才能を発掘するプログラムで、このときジョアンを真似てうたった。しかしジュカ・シャヴィを真似ていると勘違いされた。後にこういっている。「ジョアン・ジルベルトのように演奏できるのは、ジョアン・ジルベルトだけだ」。1964年10月にはテレビにも登場した。シコは「Marcha para um dia de sol」をうたった。最初にレコーディングされたシコの曲で、歌はM・コスタだった。

12月にはミュージカル「Blanço do Orfeu」のために「Tem mais samba」(「Chico Buarque de Hollanda」)を作曲。しかしこのころはまだ公衆の前でうたうことを避けていた。1965年のTVエセシオール主催の第1回歌謡音楽祭に「Sonho de um carnaval」(作詞・作曲)で参加したときは、ジェラルド・ヴァンドレがうたった(この歌は第5位までに入賞していない)。5月3日にはサンパウロのパラマウント劇場のショーに出演。ナラ・レオン、エドゥ・ロボ、タンパ・トリオがメインのコンサートで、シコは第1部にトッキーニョ、ボッサ・ジャズ・トリオなどと出演する。

その年には、サンパウロの小さなレーベルRGEと契約し、シングル盤として「Pedro pedreiro」と「Sonho de um carnaval」をはじめて自らの声で録音する(このEP盤のジャケットの右上にはBOSSA NOVAと書かれている)。「『Pedro pedreiro』を書いたとき、ボサノヴァの真似でなく、ほんとうに自分のものを書いた気がした。そこから何かがはじまった」。シコは別のインタヴューで次のようにいう。「盲目的にボサノヴァを熱狂した。その後、最初に影響を受けたサンバを再び取り上げた」。「Pedro pedreiro」はボサノヴァの影響から脱し、ボサノヴァの和声やリズムとブラジルのマルシャやショーロなどの伝統を総合することに成功したことを意味している。そしてこの年、TVヘコールの人気番組「O fino da bossa(ボサの真実)」(いわゆるボサノヴァの番組ではない)の参加者の1人としても登場した。

「シコ・ブアルキになる前、ぼくはカリオカだった」と、かれはいった。こうして、1965年、姉のミウーシャとジョアン・ジルベルトが結婚したこの年、カリオカは作詞・作曲・シンガー、シコ・ブアルキへと大きく変貌を遂げようとしていた。「何かがはじまろう」としていた。

意見ヌワカランナトーシガ

仲宗根浩

なんだあ、この暑さは。部屋の中は二十六度。先月の中頃、寒くて思わず小さなファンヒーターのスイッチを入れる日もあったのに二月になったらこれだ。たまらず出しっ放しの扇風機の羽、埃を落としスイッチを入れる。はあ涼しい。天気もよくない中、湿った空気は洗濯物も乾かしてくれない、いまは梅雨か。

先月から続いている、おばさんの音声ファイル編集、バックアップの作業、ついでにもうやり取りがなくなったメールアドレスの整理と、しばらくパソコンいじりが続いていたころ、子供のカラーボックスの修理依頼がくる。久しぶりに曲尺を出し、カラーボックスの中板の寸法をはかり、材料のシナ合板に鉛筆で線を入れる。むかし、働いていたところではよく営繕仕事があったので余った三六(三尺×六尺)の合板は車に入るよう職場にある道具を使い、自分で切り、もらったものがまだまだある。電動丸鋸があればなあ、とおもいながらノコギリでギコギコやり、カラーボックスを分解(これは電動ドリルがあるのですぐ済む)し切ったものをあててみて、細かいところはヤスリをかけ収まるよう大雑把に仕上げる。作業が終わり道具箱の中を整理していたらキャスターが四個出てきた。お、これでギターアンプ、ベースアンプ兼用の簡単な台車ができる、と考えをめぐらしながらアンプの横幅、奥行きの寸法を測り曲尺で適当な大きさ材料に鉛筆で線をひく。うーん、長めに切るところがある。電動丸鋸欲しい。径の小さいのでいいんだけどなあ。でもめったに使わないものなんてお許しが出るはずがない。少し涼しくなったらまたギコギコやって、やすりとドリルでちゃちゃっと片付けてしまおう。

こんな二月、わたしの大好きなギタリストが逮捕される。するとレコード会社はかつて在籍していたバンド及びソロアルバムの出荷停止、大手のネット販売店も「一時的に在庫切れですが、商品が入荷次第配送します。」という表示を出す。音楽の作品自体にもペナルティを科すような対応にどうしようもない違和感を感じながら、何気なく見ていたテレビの沖縄芝居の字幕付き放映。「アサバン」という単語を「朝飯」、「シマァー」という単語を「島(離島)」という意味で字幕が出る。方言で話すことも達者でなければ、人様に語ることができる知識もないけれど「アサバン」はお昼ご飯を、やり取りの流れから発せられた台詞に含まれる「シマァー」という単語が村落を意味することぐらいはわかる。お金払って見ている番組、そこらへんはちゃんとしようよ、おもいながら二年後の七月二十四日までには我が家からテレビ受像機というものは無くしてやる、と意を決する。

とびっきりくさい靴を履いて歩こう

さとうまき

昨年の12月14日、ブッシュ大統領(当時)がイラクを訪問、マリキ首相と一緒に記者会見しているときだった。ムンタザル・ザイディという記者が、靴をブッシュ大統領に投げつけたのである。「イラク人からの別れのキスだ。イヌめ」と叫んで最初の靴を投げ、続いて「これは夫を失った女性や孤児、イラクで命を失ったすべての人たちのためだ」と片方の靴も投げつけた。TVで見ていると、靴は見事ブッシュ大統領の顔をめがけて、真っ直ぐ飛んでいった。ブッシュ大統領も、見事に見切って最小限の動きで靴をかわしている。これが、顔に命中して流血でもしようものなら、ザイディ氏はそのまま射殺されたかもしれないが、すべてが、絶妙のタイミングだった。すでに、アメリカの選挙では、国民はオバマを選び、長かったブッシュ政権に別れを告げていた。

さて、この事件の反応はというと、一部報道では、「ジャーナリストとしては、はずかしむべき行為だ」ともっともらしいコメントを出すイラク人のインタビューが流れていたが、9割以上が、「よくやった!」という反応だったと思う。イラクでは、アメリカが始めた戦争で、10万人以上の一般市民が殺され、親を失った子どもたちは590万人にも達するという。

2003年、アメリカの空爆で足を汚したムスタファ君当時8歳の男の子がいた。今では14歳になっている。どう思う?ときいてみた。
「彼がやったことは、ブッシュが私のおじさんを殺し、私を傷つけ多くのイラクの子どもたちを殺したことへの復讐になりました。僕には、何も出来ないから、彼がしてくれたことに感謝します。ただ、あまりにも世界中で多くの人を殺してきたアメリカの大統領です。靴を投げられただけじゃ、償えないですけど。ホワイトハウスを去る前にこのような事件が起こり、世界がよくなればいいなと思います。」

この復讐という言葉で思い出した話があった。911で息子を失った、セクザーさんがイラク攻撃をするという話を聞いて、「爆弾に自分の息子の名前を書いてほしい」とお願いするのだ。国防省は、「ジェイソン・セクザーさん、私たちはあなたを忘れない」と書いた爆弾をイラクに落としたという。その話を聞いて、お父さんは、「うれしかったです。復讐になりました」とインタビューに答えている。しかし、その後、ブッシュ大統領自身も、イラクは911とは何の関係もなかったことを認めた。2003年2月、国連でイラクが911と関係があるという証拠を説明したパウエル国務長官(当時)にいたっては、うその情報に操作されてしまった自分を恥じ、「一生の不覚」とまで言っているのだ。このおとうさんは、それでも、「自分のしたことを過ちだとは思わない」と開き直り、「アメリカはテロとの戦いを続けるべきだ」といい続けるのである。第一相手が違うのだから、復讐になっていない。

たまらないのは、イラクに落とされた爆弾で怪我をした人々。当然、アメリカに復讐を思う。「テロとの戦い」とは、まさに、このような茶番で、2001年から続けている。ムスタファ君は、未だに足がうまく動かない。ムスタファ君の気持ちを代弁するジャーナリズムはあったのか? 時には、靴を投げるというのもありだと思う。とびっきりくっさい靴がいい。

2009年1月、アメリカはオバマ新大統領が就任。ブッシュ大統領はホワイトハウスを後にすると、駆けつけた市民から「ヘイ、ヘイ、ヘイ、グッドバイ」と唱和する声が、空へ向かって響き渡った。スポーツで勝利チームのファンが敗者に浴びせかけるからかいの歌だという。思えば、ブッシュ大統領は、8年前の就任式のパレードで卵を投げつけられたのが始まりだった。さびしくホワイトハウスをさり新しい時代がやってきた。

3月20日、イラク戦争からまもなく6年目を迎える。私は3月13日には日本を出発し、イラクの子どもたちの成長を振り返りながら、現場からイラク戦争を考え直そうと思います。ブログでレポートしていきます。http://kuroyon.exblog.jp/ よろしく。

メキシコ便り(18)

金野広美

メキシコには毎年10月にカナダから約4000キロの道のりを、1ヶ月あまりかけて越冬するためにやってくるモナルカ蝶の自然保護区があります。毎年1億数千羽はやってくるといわれているその場所はメキシコ・シティーから車で約3時間、ミチュアカンにあるアンガンゲオの森です。メキシコにいる間に一度は見た方がいいといわれて、クラスメート8人で行こうということになりました。同じクラスの米国人のミシェルの友人がやっているという旅行会社で1月31日のツアーを申し込みました。すると前日になり人数がオーバーしているためだめだといわれ、それなら次の週にと延期し、お金も彼女に渡しました。これで大丈夫だと安心していたら、またしても前日に、今度も人数オーバーでだめになったといわれました。どういうこっちゃと、わけがわからないまま、また次の週もあるといわれましたが、みんな頭にきて、それならレンタカーを借りて運転手を探して自分たちで行こうということになり、すぐに動きだしました。

結局10人乗りの車を米国人のブライアンが借り、当初行く予定のなかったオランダ人のバスティアンが道を知っているというのでむりやり運転手の交代要員に頼んで翌朝8時に出発することになりました。しかし、当日約束の場所に行っても待てどくらせど車が来ません。そして延々と待つこと2時間、やってきたのはブライアンが運転する5人乗りの小さな車一台。「ええーどないなってんのん?」と聞くと、前夜ブライアンが予約した10人乗りの車が、翌朝レンタカー会社に8時までに戻ってこず、待っていたらしいのですが、いつまでも待つわけにはいかないので、同じ料金で小さな車2台になったというのです。「ほんまにここはメキシコやなー」とみんなあきれ果てながら2台に分乗しました。それにしても交代要員にとバスティアンに来てもらっておいてよかった。もし頼んでなかったら行けなくなるところでした。

先週同じ場所に行った友人が交通渋滞で7時間かかったといっていたので、ひょっとしたら、今から行っても保護区は閉まってしまって見られないのではないかと、みんな心配しましたが、とにかく行ってみようと10時を過ぎていましたが出発しました。すると本当に運がよくて、まったく渋滞がなく1時過ぎには森の入り口に着きました。

たくさんの観光客がうろうろする中で、子供たちが竹の杖を5ペソ(50円)で売っていました。杖を売っているということは、これが必要になるほどの山道だということ? うーん、一瞬買うかどうか迷いましたが、ここは見栄をはって我慢することにしました。でもインド人のアンドレアと韓国人のテナはすぐに買い求めました。沿道には食堂や土産ものを売る店がずらりと並んでいます。食堂ではマリアッチを演奏する楽団がにぎやかに歌っています。土産ものが気になりながらも私たちは保護区に急ぎました。そして入り口で35ペソ(350円)を払い、頂上めざして歩き出しました。そして山道を30分ほど登ると少しずつ蝶が飛んでいるのが見えてきました。みんな期待に胸ふくらませながら、しんどい山道をがんばって登りました。

道は乾燥していてすべりやすく、やっぱり杖を買えばよかったかなーと少し後悔しながらも40分ほどたつと、小さな水の流れがあり、いるわ、いるわ何百羽もの蝶が水を飲んでいます。みんな一斉に流れに近づきシャッターをきりました。蝶たちは人が近づいてもまったく動揺することなく悠々と水を飲んでいます。そしてそれからもっと上に20分も登ると、視界が開けて大きな広場になっている場所に着きました。そこではおびただしい数の蝶が空高く飛びまわり、もみの木の枝という枝にたわわにぶら下がっています。蝶の色のオレンジと黒が混ざり合って、まるですべての木が枯れ葉になって、ゆさゆさと揺れているようです。蝶の重みで折れる枝もあるそうで、とにかく一面蝶だらけです。私はこんなに大量の蝶を見たのは初めてだったので口をついてでてくるのは、ただただ「すごい」という言葉だけ、ほかにはこの光景を形容する言葉が見つかりません。普通は蝶々というとかわいいとか、きれいとかという感想になるのですが、ここまでたくさんいるとそんな言葉はどこかに飛んでしまい、密集する小さな命の凄みすら感じてしまいました。クラスのみんなもただ口をあんぐりあけて空を仰いでいます。空中を埋め尽くした蝶の乱舞に、言葉もなく立ちつくしているようでした。

モナルカ蝶は学名をオオカバマダラといい、日本でも見られるアゲハチョウの一種です。8月にカナダとアメリカの国境地帯のロッキー山脈を飛び立ち、強風時は羽をたたんでV字にして直風を避け、弱風時は羽を広げて風に乗りながらやってくるそうです。ここミチュアカンにはモナルカ蝶の大好物の唐綿(とうわた)があるため、はるばる渡ってくるのです。モナルカ蝶はここで冬を過ごしたあと春になると繁殖し、その命を終えます。そして生まれた2代目が3月にカナダへと飛び立ちます。カナダで3代目、4代目と繁殖を続け、5代目がまたメキシコに旅立つというのです。まったく誰も知らない道を4000キロも旅して、必ず同じ場所で冬を過ごすのです。この行程を大昔から寸分たがわず続けているというのですから、もう不思議としかいいようがないですよね。それにつけても、何とけなげできちょうめんなモナルカ蝶なんでしょう。ほんと感動ものです。なのにそれに比べて私たちの朝のドタバタ騒ぎはいったい何?。メキシコ人よおねがいだから、もうちょっとモナルカ蝶を見習ってよ、と言いたくなった1日でした。

オトメンと指を差されて(9)

大久保ゆう

最近はメディアで触れられることも多くなった我らがオトメン。しかしまだまだ出たてなのでその呼び方も様々です。草食系男子だとか、お嬢マンだとか。……特に後者のネーミングはどうにかならないでしょうか。いささかセンスに欠けるんじゃないかと……。

草食と呼ばれてもピンと来ないし(表面的なところだけじゃない?)、お嬢マンって特撮モノの雑魚怪人みたいで変だし(てゆうかお嬢様の何たるかを何にもわかってない! 乙女とお嬢様は別の生き物なのです!)、やっぱりオトメンがいちばんしっくると思うんですけどね、当事者としましては。こうしてメディアに書かれ始めると、何だか違うなと思うのが中にいる人間の常ですよね。「この人は(若者のことを)わかってない」みたいな感覚が出てくるもので。

先日新聞に載った草食系男子の記事では、「女の子と飲んで終電がなくなると、ラブホテルに行って寝るけど、別にセックスはしない」みたいなことが書かれていたわけですが、当事者から見ると「この記事10歳か20歳くらい上の人がテキトーに書いたんじゃない?」という疑問が湧いてきます。

まず「終電なくなる→泊まるとこない→安いからラブホテルで代用」という思考自体が古いんですよね。今の若者だったら、友だちとオール(一晩越えること)するならカラオケかマンガ喫茶だと思います。わざわざ妙な空気になる場所へふたりで行くくらいならね。ちなみに今のマンガ喫茶にはちゃんと個室があって、仮眠もできるようになってるので。シャワーもあったりしますよね。仮眠だけならこっちでじゅうぶん。

もちろん女の子の友だちとふたりでオールしても何もしませんよ(襲うとかおかしいでしょ)。それは外でも自宅でも同じで。そこは当たってます。そもそも恋人以外の人に欲情するってことがよくわかりません。獣じゃないんだから、ちゃんと恋愛しましょうよ。

あと草食系男子で首をひねるのは、ラクダとかヤギみたいな、その「おとなしい」「ひ弱」っていうイメージ。まだそういう旧態依然なステロタイプのままなの?とか思います。もしかするとそういう人も本当にいて、私が草食系男子じゃなくてオトメンなだけ、という線引きもできるのでしょうが、とりあえず個人的なオトメンの定義からは外れます。

だって、オトメンはいつも心のなかで「燃えている」のですから!

というのは初回にも少し触れましたが、オトメンはオンオフのスイッチが極端というか、ものすごくメリハリがあります。仕事やスポーツではバリバリ、趣味ではゆるゆる。パブリックなところでは熱血で、プライヴェートなところではまったり。そこはもうぴっしりと分けます。

オトメンが女性陣に頼りにされるのは、その「実は熱血」「実はハードボイルド」みたいなところもあると思います。普段は女友だちと同じような感覚でつきあえるんだけど、いざというときにはちゃんと男の子的な役割で頼ることもできる、みたいな。草食系男子だとそういうところがなさそうです。

仕事なり会議なり学級会なり何なりで、誰も動かずしんとしてるときに、だんっと机を叩いて「何やってんだお前ら」みたいな感じで動き出すのは、実はオトメンですよね。あるいは円滑に動いているように見えるプロジェクトの裏でめちゃくちゃ暗躍(?)というか目立たずに支えているのはオトメンだったり。意外と「オレがやる!」というタイプが多いような。

大事なところで怒ったり泣いたり熱くなったり。それを実際に表に出すこともあれば、心のなかだけでやってることもあります。

基本的に、私と同年代の人のキーワードというか行動原理というか、常に「やりたいことをやる」「自分は自分、他人は他人」みたいなところがあるように思います。そういうことが強く意識されていて、それだけに色んなひずみができたり、問題が起こったり。

もちろん誰が考えてもわかることですが、世の中には「やらなくちゃならないこと」があって、「自分」と「他人」が完全に孤立した状態で社会が成り立つわけなくて。(当たり前じゃないですか! でもその当たり前のことをわかってない人が多すぎるんですよ!)

私の出会ってきたオトメン仲間っていうのは、そういう「誰もやらないけど、やらなくちゃいけないこと」をあえてやってる人っていうのが多かった気がします。それこそ怒ったり泣いたり熱くなったりしながら。ものすごく大変であるわけですが。

プライヴェートがゆるかったり自己愛的だったりするっていうのは、もしかするとその反動かもしれないし、そっち側が結果として草食系男子に似ているっていうことならあるのかもしれません。

というわけで!

ここでオトメンと草食系男子のあいだに大きな線を引きます。

・草食系男子【そうしょく・けい・だんし】
 表裏がなく、内省的で繊細。争いや活動に消極的で、和を尊び、自分の趣味や世界を大事にする。

・オトメン【おとめん】
 裏表があり、対外的には活動的で積極的で社交的で時に破壊的。ただし自分の領域に入ると極端に自己愛的でまめまめしい。

……あれ? こんなのでいいのかな? でもどっちも「男らしさ」なんていうものに疲れているのは一緒のような気もします。そういえば、草食の反対は肉食ですが、それ以外にも「昆虫系男子」なるものが生息しているようですよ。色々あるんですね。

ああ、そう考えると男友だちにそれぞれ当てはまる人がいるなあ……ということで、オトメンの男付き合いに関してはまた次回にでも。

製本、かい摘みましては(48)

四釜裕子

「仕事は面白いものである。嬉しいものである。又愛すべきものである。金縁の美しいものが出来上がる時職人は最も大切に取り扱う。………金箔が付いていて一方は表紙を付けるために糊がついている。金を汚さない為汚れた糊のついた手を頭の毛で拭う。朝は綺麗に梳って来たものを仕事に懸命になると髪の毛も着物も、手拭いの代用とするほど熱中する」。これは『売られ続ける日本、買い漁るアメリカ』(本山美彦/ビジネス社/2006)という本のあとがきに引用された、賀川はる子さんの自叙伝『女中奉公と女工生活』(大正12)の一部だ。ここではさらに、「製本工が又その書物の製作に対して、熟練の技量を自覚する時に之にも誇りがあるものである」との言葉を引いて、誇りを持って個々に仕事をすることが集合体としての社会の品格になると書いている。

賀川はる子(ハル)は横須賀生まれ(1888-1982)、伯父・村岡平吉(1859-1922)が経営する福音印刷合資会社を縁に賀川豊彦(1888-1960)と出会い結ばれ、ともに社会運動家として活動する。福音印刷とは、上海で印刷技術を学んだ平吉が横浜に戻って聖書などを主に手がけていたようだ。大阪市総合博物館の資料によると創業は1898年、マニラ、シンガポール、タイ、広東、台湾、満州、モンゴル、アメリカなど50カ国の活字を揃えていたという。冒頭の引用に戻ると、十代のハルには仕事はきつかったに違いなく、天金された聖書の表紙張りなどの作業を、憧れや喜びや誇りの言葉にとどめることが大切だったのではないかと思う。

編集者の植田実(1935-)さんが書いた(「ときの忘れもの」ウェブサイト/植田実のエッセイ/2006.10)文京区小石川柳町の製本屋でバイトしていたころの話を読み返す。その路地を歩くだけで、丁合や表紙張りや箔押しなど分業された本づくりの過程を全て眺めることができたこと、また、その後植田さんは編集者としてたくさんの本をつくってきたにもかかわらず、「もの」としての本づくりに一要員として関われたことをどれだけ喜びとしていたか、そして、工場で仕上げた本に発行日として印刷されているその日付が、まさにその喜びの日々のまぎれもない記録であることを、「唯一の忘れ形見である」と記すのだ。47年ぶりに植田さんはその地を訪ねる。「あの頃の私はそこに通うというより、日々その小さな営みに引き寄せられていったのである」

製本屋で働いていたといえば、マイケル・ファラデー(1791-1867)も知られている。橋本毅彦さんの近刊『描かれた技術 科学のかたち』には、イギリスの王立研究所でのハンフリー・デーヴィの講演に感銘を受けたファラデーが、幸運にも実験助手となり、一年半の大陸旅行への同行ののち1833年に研究所の教授となり、60年のクリスマス講演「ロウソクの科学」につながったことが簡単に記されている。デーヴィの助手になるためにファラデーは、講演をまとめたノートを製本し、それを手に申し出たと、後藤幹裕さんが出していたメルマガで読んだことがある。

「日本語は亡びるのか?」を特集した「ユリイカ」(09.01)で長谷川一さんが書いた「イッツ・ア・スモールトーク・ワールド 『綴じられる』という運動へ」の中にも、印象的な一文がある。「綴じを裁ち落とせば、書物は幾葉ものカードに解体されてしまう」。逆の発想は常にあったが、ページをカードとは! そして、本(書物)とカードを「書き言葉」と「おしゃべり」の場ととらえ、その関係についてこう記す。「排他的な実体としてみるのではなく、『綴じられること』をめぐるひとつの運動の二つの様相としてとらえてゆくことはできないか」。

製本は、憧れと喜びと希望と誇りの営みなのだ。

とろーん

大野晋

趣味は何かと言われたらなんと答えるだろうか?
クラシックです。(いえ、聴くだけですけど)いやいや、それでは狭すぎますね。
音楽です。今度は広すぎるかな? それでも、クラシックに拘らず、ジャズにポップス、シャンソンにタンゴ、ボサノバに演歌にえとせとらと、なんでも聴くので広すぎると言うことはないのだけれど、ジャズのCDだけは手を出さないように心しています。(クラシックだけでもCDがあふれているのに、これでジャズを集め始めたら寝る場所が消滅してしまうので)
映画です。そういえば、最近、見てないですね。絶対的に映画を見る2時間という時間が不足しています。
ゲームです。うむむ。ちょっと前にはゲーム評論ができるくらいにたくさんあったのですが、最近のゲームについていけなくなってしまって、リタイアしました。(どうしても、ゲームを「どう処理しているのかな?」とか、シナリオを分析しながら見てしまうんですね。完全な職業病です)
散歩です。いや、絶対に運動不足です。
植物観察です。うーん。これは趣味じゃないかも? かといって、職業でもないんですけど。

興味のあるものは他にもあって、それをやるには時間がありません。最近では、むしろ、何か一つの趣味を仕事にすべきだったなあと後悔することしきりの日々。。。

そういえば、写真という趣味もあって、これも他の例に漏れず、しこたまカメラだの、レンズだのがたまっています。ときどきカメラ屋の店頭から処分になっている安いレンズを拾ってきては、レンズのふちから中を覗き込んで、とろーん!としています。なぜか、レンズから見た世界が好きなんですね。なので、同じ画角(なんミリという奴です)のレンズがたくさんあります。とろーんとしていたり、しゃっきりしていたり、レンズによってクセがあって、なかなかに道楽の世界が深い。

いやいや、道具集めだけじゃなく、ちゃんと使ってますよ。(たぶん)

あと100年くらい、時間が欲しい!

などと言っていたらひょんなことから、写真が一枚展覧会に飾られることになってしまいました。
場所は。。。ないしょ、にしておきましょう。

では。失礼。

しもた屋之噺(87)

杉山洋一

10年前の98年11月、シチリアはカターニアとメッシーナに出掛けたときの日記。
「一人でぼうっとメッシーナから対岸のカラーブリアを眺めていると、堰を切ったように昔が思い出されて、視界がくぐもって見えた。祖父が網元だったので、子供の頃、沖に出てはきす鱚や鯒を釣り、たらふく食べた。あの海がここまで繋がっているのだなと思う」。

10年ぶりのシチリアは、それは寒くて驚きました。カターニアの空港は底冷えし、椰子の木は寒々しく風にゆれています。初めに訪れたメッシーナは周りが暗くなるほどの土砂降りで、雨宿りしようと入ったメッシーナ中央駅に流れるアナウンスも、「天候不順のためパレルモからの列車は予想不可能の遅延」、という耳を疑うものでした。タクシーに乗りたくとも、駅前に並ぶ6台のタクシーはどれも客引きつきの怪しげな白タクで、結局、路面電車に飛び乗り、ホテル近くで降りたところまでは良かったのですが、誰に道を聞いても、あちらへ行けこちらへ行け、この辺りではない云々と散々振り回された挙句、文字通りのドブネズミとなり、おかげでしつこい風邪に悩まされることになりました。なにしろシチリアはイタリアの南の端で、普段とても暖かいため暖房設備が整っていないのです。ですから、前日パレルモで積雪したほどの強い寒波に見舞われると、ミラノより余程身体が凍えてしまいます。

でも、メッシーナへ向かう車中、タオルミーナ前後だったか、長いトンネルを抜けた瞬間、眼前一杯にカラブリアが広がったときには、言葉を失いました。不思議なもので、思わず「ああ、イタリアだ」と心の中で叫んでいました。茫とした海の向こうにせりあがるカラブリアの姿は、山の頂に美しい白い雪も降りかけられて、それは美しいものでした。

今はフランスに住んでいるピアノのトゥーラの叔父さんがメッシーナ郊外に住んでいて、10時半過ぎ演奏会が終わると、メッシーナで夜半に開いているレストランもないからと自宅へ遅い夕食に招いてくれて、まるで10年来の友人のようにもてなしてくれたのには感激しました。料理からワインに至るまで、全て彼の自家製で、それは美味でした。たかだか一粒オリーブを食べて鳥肌が立ったのは、後にも先にもこれが一度きりの経験です。2時過ぎに漸く食後のもいだばかりの瑞々しいオレンジをいただき、メッシーナへ戻りました。

シチリアで朝食にジェラートを挟んだパンを食べるのは知っていましたが、せいぜい暑い季節の床しき愉しみ程度に想像していたのです。ところが翌朝、寒空の下、老いも若きもメッシーナ風かき氷に嬉々として巨大なパンを浸しているのを見て仰天しました。あなたもお上がんなさいと随分勧められましたが、あの寒さでは食べられたものではありませんでした。

翌日の演奏会はカターニアのビスカリ宮殿の豪奢な大広間で、気がつくと暖炉に火が入っていました。訥々としたジェルヴァゾーニ作品を演奏しているときなど、パチパチと静謐に薪のはじける音が沈黙に忍び込み、独特の余韻を醸し出します。ゲーテも訪れたフリーメーソンの秘密集会場、儀式会場だったビスカリ宮殿の大広間は、目まぐるしい程のロココ装飾に一面覆われています。言われるがまま祭壇の左右に据えられた石柱を見れば、なるほど確かに逆さまに誂えてあって、フリーメーソンに纏わる魔笛や39番などのモーツァルト、特に変ホ調の神秘的な響きが染み通ってくるようです。

翌日ミラノに戻って間もなく、ライヒやタン・ドゥーン、フェルドマンなどの練習のためボローニャと往復することになりましたが、今やミラノ・ボローニャが1時間足らずで移動できるようになったことに改めて驚き、ボローニャがミラノより余程寒いのも意外でした。気がつけばボローニャの演奏家たちと会うのも実に1年ぶりで、時間の早さに舌を巻きます。当初はボローニャ大学で開いていた演奏会が、いつの間にかコムナーレ劇場のフォワイエになり、何も知らぬまま演奏会に出掛けてみれば、今回はコムナーレ劇場の舞台で演奏会を開いていて、厳しい世情の折、こうして堅実に発展している友人たちに心から感嘆します。

今回初めて演奏する作曲家ばかりでしたが、それぞれにとても違って演奏は新鮮でした。ライヒなど中学生の頃よく聴きましたが、実際演奏してみると、独特の感動が演奏者全員の裡に、静かに沸きあがってくるのです。没我して音に溶け込むと自然に立ち昇る空気があって、聴衆も心を動かされるのでしょうか。驚くほど長い間、拍手は止みませんでした。

ミラノに戻って、幼稚園の門前、子供たちが無邪気にカーニバルの紙吹雪をかけ合う姿に思わず頬が緩みました。

(2月27日 ミラノにて)

n次元の……――翠の石室53

藤井貞和

カゼの犬、カゼ引きの犬、
風のいぬ、ユキの犬

雪のいぬ、
カゼも、ユキも、ポチも、コロも

降ってこい、天より
降りたくない、帰りたい

アメのポチ、アラレのコロ
砂あらし、mine(鉱山、私の、地雷)

My my my mine? (私の 
私の 私の 何?)

(「絵画は鏡の向うのn次元の明証となるだろう」〈瀧口修造〉。古書店の目録から、ページ1枚欠、と断り書きのある画集を購入した。欠けているページを、古書店はどうして確かめられたのか、どうしても分からなくて、夕方を過ぎるまで、いつになく熱心に画集を見てしまった。欠けた1ページが見つからない。欠けているのだから、それでも探してしまう。「6の目の骰子を振りながら、その実は7の目をもとめているのではなかろうか?」〈同〉。あの1ページは、いたずら好きの古書店主が私へ仕掛けた7の目? 探した画集は{骰子の7の目}シリーズの一冊。)

方法からの離脱

高橋悠治

クセナキスの音楽に惹かれてピアノ曲を委嘱したら、『ヘルマ』の楽譜が送られてきた。確率論と集合論を勉強するように言われ、確率論からはじめ、電子音楽『フォノジェーヌ』もクセナキスとはちがう、自分で考えた確率論的方法で作曲した。その後ヨーロッパでは数理論理学の本をよんだ。ウィトゲンシュタインの『論理哲学要綱』では、論理学からはずれて存在のふしぎに向かっていく後半が好きだったし、ブローウェルの直感論理学やクワインに興味を持った。排中律の否定と、この黒犬やあの白犬がいるばかりで「イヌ」というものは名前にすぎないという唯名論に共感していた。

でも、その頃の作曲では、確率論や古典論理を応用するコンピュータ使用に向かっていた。確率論的には、細部の不確定は全体の構図を変えることがない。論理的には、体験は信条を変えないということになるだろう。文章を書くと、ことばのリズムを切りつめていくと、ひとつひとつちがう現象からつくられる予測不可能な空間ではなく、抽象化した表現、定義やアフォリズムのように見えてくる。

目的があれば、そのための方法がある。使われた後も、方法だけが残るならば、それがいずれはさまたげになる。いっぽうで、体験をかさねると、全体の網はすこしずつゆるんでいき、それとは知らずに別なものになっていく。言語ゲームや家族的類似は、そういうゆるやかなつながりへ向かう傾向を指しているのかもしれない。そこでは日常の時間のはたらきがたいせつになる。休まずにつづけるのではなく、中断しながら、すこしずつすすめる。ちがうものがはいりこんだり、逸れていってもかまわない。流れは低いところをみつけながら、自然に海へ向かう。空間の枠だけでなく、時間もゆるやかなものになる。

うごかそうとするのではなく、遠くからのささやきにうごかされて、すぎてゆく。