しもた屋之噺(271)

杉山洋一

ここ暫く足の遅い台風が居すわっているおかげで、見事な入道雲に見惚れたかとおもえば何時の間にか厚い雲に変わっていて、気が付けば酷い雷雨、とめまぐるしい天候の変化に翻弄されています。確かに夏の天気は変わりやすかった覚えがありますが、昔からにわか雨は、こんな南国のスコールみたいだったかしらと戸惑いが頭をもたげます。一時でも暑気が和らぐのは有難いけれど、交通機関も流通もすっかり滞っていて、我々の足下はこんなにも脆弱だったのかと気づくよい機会にもなりました。スーパーから米が姿を消したのも、この台風と関係あるのでしょうか。

8月某日 三軒茶屋自宅
早朝世田谷観音まで散歩する以外、日がな一日譜読み。相変わらず、遅々たる歩み。
2002年、書き始めたばかりの「しもた屋」を読みかえし、湯浅先生のミラノ訪問を思い出す。
「10月1日。中央駅にて、最終バスを待ちながら。今まで、うちの学校にコンフェレンスと演奏会のため、いらした湯浅譲二先生、Alter Ego、学校の連中と食事。インゲン豆のスープを頼み、ワインを呷る。先生はその他にパスタを頼んで、量の多さに驚いていらした。湯浅先生と、反アカデミズム、反スケマティズム。音楽を音楽の枠の外から眺め、自分の意志を、しっかり言語化する重要性。40歳前で初めてアメリカに武者修行に出た時、初めは若造がやって来たのかと訝しがられたが、録音を聞かせた途端、相手の対応がすっかり変わった事。湯浅先生のコンフェレンスには殆ど生徒がいなくて、申し訳ない。夜の演奏会には溢れる聴衆。めぼしいミラノの作曲家が顔を揃えて、錚々たる感じ。しかし、作曲の生徒は皆無。どうなっているのか。書き上げたばかりのフィンランドの合唱団の為の新作をコピー。明日ローマから送附されるとのこと。実直な筆致の清書譜に感激。パリのM嬢が湯浅先生のミラノ滞在に併せ、遊びに来る予定が、互いに忙しく断念」。
日記はやはり書いておくべきだと改めて思う。様々な感情や出来事を書いておくことで、身体と記憶を軽くしておけるし、身体から排出することで、記憶を保とうとするストレスとエネルギーからも解放される。

8月某日 三軒茶屋自宅
興味深い作品やテクスチュアなどを耳にしたら、既にそれを実現した人が存在するのだから、できるだけ違うやりかたを探さなければいけない。ずっとそう思ってやってきても、余り曲を知らないので、結果として別の誰かのやり方に似ていたりして、がっかりする。
オリンピックのトライアスロン選手が、セーヌ川での競技に備えてヤクルトを3本飲んだことで、ヤクルトの株が急騰したそうだ。ヨーロッパでヤクルトを飼うと少し高級な印象があって、日本に帰ってくるたび、ひそやかな満足感を覚えつつ必ず購入している。

石塚さんから連絡をいただき、夜、渋谷ドミューンに出かけた。前回2020年に一柳さんと悠治さんと一緒にここを訪れて以来4年ぶりだ。「湯浅譲二90歳記念」特集のはずが、偲ぶ会になってしまった。アキさん、木下正道君、鈴木治行さんに再会。みんな、本当に湯浅作品に精通していらして、一緒に坐っているのも申し訳ない心地。西川竜太さんがいみじくも、湯浅先生は演奏者さもなければ人間の力を信じていたからこそ、あの音楽を書けたに違いないと話していらしたが、その通りだとおもう。

8月某日 三軒茶屋自宅
昨日、町田の母より発熱との連絡。駅前のかかりつけ循環器科に電話をすると、彼女には循環器に持病もあるので検査に来ることを勧められる。コロナの場合、診察室には入れないが、コロナ治療薬の処方箋を出すことはできるからだそうだ。昨日熱は38,5度まで上がったが、今朝測るとには36,5度まで下がっていたと聞き安堵した。それでも味覚障害が残っていて全て苦く感じるらしい。昨日は日経平均、ブラックマンデーを超える4451円の歴史的暴落。今日は3217円もの高騰。イタリアの経済新聞も一面で日本株の乱高下を伝えた。昨日は40円もの下落、ウクライナ軍ロシア・クルスク州侵攻。どうなるのか。「怨嗟」という言葉が脳裏をかすめる。

8月某日 三軒茶屋自宅
宮崎で震度6弱の地震あり。南海トラフ誘発の可能性から、日本政府は「巨大地震注意」発令。一週間の警戒中、東海道本線、東海道新幹線など、一部徐行運転、海水浴禁止など。コロナ禍のよう。

8月某日 三軒茶屋自宅
長崎の平和記念式典への在日イスラエル大使招待が見送られたため、在日G7各大使も出席せず。イタリア大使欠席に非常に落胆。政治とはこういうものと、頭では理解できるが残念。夜、厚木で震度5弱の地震があって、地震馴れしていない息子が怯えている。

8月某日 三軒茶屋自宅
金沢能楽美術館にて般若さんと辻さんがJeux III 演奏。心に残る名演とはこういうものだろう。南海トラフ「巨大地震注意喚起」に向けての薄い緊張、1月能登地震への鎮魂、盆会も相俟ってか、正に鬼気迫るものがあった。演奏中、まさに日が暮れてゆき、般若さんの後ろに、等身大の若女の能装束がうっすら浮かび上がる。Jeuxの演奏前に、辻さんが五島藩時代の三年奉公を嘆く哀切に満ちた「岐宿の子守歌」を歌った。少女たちの悲しみが滲み、子守歌というより嘆き歌、ラメント。
金沢駅から能楽美術館までのんびり歩く。若き父と母は松崎の祖父からお祝いを貰って、兼六園や東尋坊を新婚旅行に訪れたという。昭和34年のことだ。

8月某日 三軒茶屋
演奏しながら、辻さんは「般若さんに引寄せられた」とお便りをくださった。殉教を決心して、天国へ足を踏みだそうとする思いと、恐怖に足はすくみ、身体は震えたまま、生きたいと願う葛藤。アンヴィヴァレンツ-相反する不均衡な感情、主観と客観の双方。和太鼓はどうしてそれらを同時に表現できるのだろう。ウクライナ軍、ロシア国内を奇襲。イスラエルは避難民が身を寄せていた学校を爆撃100人死亡との報道。爆撃を受けて即死しても、天国へゆけるのだろうか。それとも自分が死んだことすら気づかず、身体だけその場に脱ぎ捨てて、目をぱちくりさせながら、辺りを漂っているのだろうか。

8月某日 三軒茶屋自宅
学芸大学まで自転車、東横線で横浜へ。山下公園の日本丸を眺めつつ、コンビニで買ったおむすび2個とジャスミン茶で昼食。目の前の海を眺めながら、すっかり贅沢な心地になる。子供のころ、母に連れられて、たびたび山下公園を訪れた。ぼんやりと記憶もあるが、母と一緒に映る草臥れた写真も残っているから、父と母と3人で遊びにくることもあったのだろう。このおむすびを持参し芝生で昼食にすることもあったに違いない。日本丸の反対側にはピースボートが停泊していて、煙突が薄黒い煙を吐いていた。県民ホールで音響実験。オーケストラの音は思いの外よく通ることがわかって、一安心。声をどのように聴かせるべきか、矢野君や市橋さんと相談しつつ、菊地さんに細かくリクエストを出す。

8月某日 三軒茶屋自宅
朝、散歩をする以外、一日ひたすら譜読み。夜、母と電話をしていると、小学生の頃、父が懇意にしていた山内敏功さんを頼り、郡上八幡や新居浜を訪れた時の話になった。夕日に映える小さな漁港と瀬戸内海の美しさは忘れられない。逆光のなかで黒いシルエットだけ黄金色に輝いてみえた。釣り糸を垂れると、見たこともない極彩色のベラがよく釣れて、子供ながら、綺麗なこの魚は本当に食べられるのかしらと不思議に思った記憶がある。宇和島近くで、当時出来たばかりの船底がガラス張りの観光船で、海中散歩を楽しんだ。
息子が幼かったころ、家人と連立って、コモ湖やらサン・モリッツ、アルプス、ジェノヴァの港やターラントの海、ニースの浜辺や美術館など、慎ましくも愉快な旅行にでかけたのは、息子にもいつか自分が両親と過ごした時間を思い出してほしいからかもしれない。その時頭に浮かぶ風景が、ただ家の日常だけではさすがに味気ない。山や海の色味ある風景と空気の匂いも、できれば一緒に思い出してくれたらよいと思う。
子供のころ自分が両親と出かけた時間は、気が付けば、思いの外大切なものだと気づく。

8月某日 三軒茶屋自宅
新しく作る悠治作品CD原稿を整理していると、ほんの数年の隔たりながら、鬼籍に入った関係者の多さに言葉を失う。これを感慨深いと呼ぶべきなのか。一期一会と記すべきなのか。
母曰く、戦後過ごした松田惣領のそこそこ立派な屋敷ではなく、疎開していた山北の民家に愛着があるという。よく遊んでいたからだそうだ。松崎の両親は疎開先で気兼ねしていたのか殆ど近所づきあいもなかったそうだが、母のような子供は、近所の皆からすっかり可愛がられて、無邪気によく遊んでいたという。今となっては、松田から隣町の山北に疎開する感覚も余りに近くて理解できない。恐らく戦争末期は、松田のような街であっても、爆撃の対象とされたのだろう。グーグルで検索すると松田惣領1536番地、母が戦後住んでいた松崎の家は、現在大型のドラッグストアに姿を変えているが、母が住んでいた頃からあった島村酒店は、現在も道の向かいに店を出していた。

8月某日 三軒茶屋自宅
広々とした木造のファームで、悠治さんのピアノコンサートを聴く夢をみた。観客はさほど多くなく、雰囲気的にクローズドの演奏会だったのではないか。木製の丸テーブルにつくと、悠治さんが目の前の小さなピアノで、「愛の悲しみ」とゴセックのガボットが合わさったような奇妙な作品を弾いた。それから、腕を白鳥の翼のように大きく羽ばたかせて、左から右、右から左へと走った。脱力して走っているからか、少し「どてどてどて」という音がする。出し抜けに大きな白いスクリーンが現れたと思いきや、いきなりそこに家人の姿が映されてびっくりする。どうやら即席で同じ動作をやらされているらしく、照れながら腕を仰いでどてどて走ってみせたので、見物する皆がどっと笑った、というところで目が覚める。

8月某日 草津 佳乃屋
「考」新作の楽譜を携え、家人と連立って軽井沢に向かう。東京駅のコンビニエンスストアを3軒まわったが、線香はどこも売切れていたのはお盆過ぎだからに違いない。駅の隣のオフィスビルで弁当を購うと、箸がついていなかった。軽井沢駅まで天野さんに迎えにきていただき、三人で駅からほど近い軽井沢霊園にむかう。イタリア料理レストラン「プリモ」向かいの駐車場から入って左に3メートル、通りを右に折れて水屋を左にみた角、「アロハ」と刻まれた墓石の先に楕円の墓石がみえるから、と由紀子さんより教えていただく。
実際に目にする楕円の墓石は、想像よりずっと大きく立派で、楕円の墓石は地面に横臥していると思いきや、実際は見事にすっくと立っていた。よく見覚えのある筆致で「三善」と彫られていて、その右には五線が引かれ、五線譜には馴染み深い四角いフェルマータが鎮座ましましていた。
どこも湿っぽくなく、むしろユーモアさえ感じられながら、どっしり、しっかり構えていらっしゃるところもあって、どうやったら全て同居させられるのか本当に見事な作品だ、と由紀子さんに書き送った。
聞けば、あの墓地と決めたのは先生が未だ30代の頃、具体的にお墓が決まったのは今から40年前、建立したのは亡くなる10カ月前で、先生が細かく希望を述べて完成したとのこと。石は地元の千曲石で、信州は由紀子さんの母上の郷里で所縁のある土地だという。文字は自筆譜から起こしたものだそうだ。天野さんが持ってきてくれた箸で、漸く弁当にありつく。

8月某日 三軒茶屋自宅
朝4時過ぎに一番風呂に入って6時の新宿ゆきのバスに乗り込んだ。昨夜も2回温泉に浸かって至福を味わう。もしかすると十年以上温泉には入っていなかったかも知れない。昨晩草津で息子が少しだけ弾いたピアノを内緒で聴いて、そのまま東京に戻り「考」リハーサル。
猿谷さんのフレーズはとても長い。それをぜひ魅力的に響かせたいとおもう。「考」の皆さんは、相変わらず勉強熱心で、休憩時間も惜しんで練習に勤しんでいて、自分はよほど怠惰な性格だと省みるばかりだ。

8月某日 三軒茶屋自宅
代々木八幡のハクジュホール、中村ゆかり・ブルーノ・カニーノ演奏会にでかけた。
台風10号が近づく中、千代田線から代々木公園駅に降りたつと、「台風の影響で次の代々木上原駅は大変混雑しており、ホームに降りられない可能性もあります。ご注意ください」と構内放送が流れた。こんな放送は初めて耳にしたが、一体ホームに降りられなかったらどうなるのかしら、と心配になった。尤も、自分が乗った千代田線はとても閑散としていて拍子抜けするほどであった。
プロコフィエフ2番ソナタ4楽章のpoco menoを、カニーノは臆せずどんどん進んでゆく。すると、なるほど展開部のカンタービレがこれまで聴いたこともないような広がりを持って迫ってきた。
フランクのソナタ冒頭のピアノは、ヴィロードのような触感、魔法のような音色で、何だか自分の耳が信じられない。4楽章終盤、長調が戻るところで、思わず目に涙があふれる。
自分が思うロマンティシズムとは、こういうものだと思う。書かれた音を書かれた通りに奏する。音を主観で塗りつぶしたり、歪めたりもしない。ただあるがままの姿で発音する。その音が、この世界に発せられた瞬間、音そのものに魂が宿る。それは演奏者に帰属するのではなく、空間を共有する皆に等しくしみ込む、感情の襞のようなもの。
少し違うのだけれど、カニーノと悠治さんのピアノは似たところがある。カニーノはよく、指の腹と肉で発音するように言うけれど、その深く、太いタッチが少し似ているのと、主観に凭れず粛々と書かれた音を奏してゆくところだろう。二人とも自分が作曲するからか、ただ書かれた音をつま弾くだけで、エゴなど微塵もはいりこむ隙がないのに、音がこの世に発音された途端、心を灯し光を纏う。そういえば、無為にペダルを踏まないところも似ているかも知れない。
中村さんのヴァイオリンも、ピアノで言えば、深いタッチのような、彫りの深さがうつくしい。中村さんとカニーノは、同じ歌を共有していると思った。

8月某日 三軒茶屋自宅
昨日は駅前で眼鏡を作り、三軒茶屋の蔦屋で尾崎世界観「転の声」を購入。先日、高橋源一郎「飛ぶ教室」でこの作品を取り上げていて、彼が絶賛していたし、絶対読もうと決めていた。なるほど確かにこれはロックミュージシャンでなくとも、クラシック演奏家にとっても必読かもしれない。誰しも心当たりはあるような表現にどきっとさせられるし、なるほど本質は略同じだと思う。読み進めてゆくと、先日の芥川作曲賞で関わった若手作曲家の音楽語法と尾崎の日本語表現に、どこか近しいものがあると気が付く。
自分でそれを真似たいとは思わないし、出来るとも思わないが、一見軽い口調でテンポよくフレーズを紡ぐ絶妙さは、直截な表現が無意識に彼らの裡の衒いを孕んでいて、それを丁寧に避けるべく紡がれた見事な表現手段ではないだろうか。先日もそれを薄く感じながら演奏していたが、尾崎を読んでより強い確信に変わった。なるほど彼らの文化、音の深度、確度を表現するにあたり、良い啓示を受けたと思う。
単に世代格差と言われればそれまでで、現代日本社会からの乖離に過ぎないのかも知れないが、自らを常に新しい空気に曝す努力は、かかる怠惰な人間にとっては酷く重要なのである。
夕方、沼野先生と横浜の英一番館でローエングリンについてのトークがあって、戸部のブリコにて本年最初の秋刀魚をいただく。美味。

(8月31日 三軒茶屋にて)