階段を昇り降る

植松眞人

 笠原亮介は小さな商社を定年退職したあと、昼間はずっと一人で過ごすようになった。長男と長女はどちらも家を出て、それぞれに家庭を持っている。妻は定年退職のないフラワーアレンジメントの講師をやっていて、週に三日は教えに行き、残りの日々は友人と買い物をしたり、カラオケで歌ったりしている。
 笠原にも友人がいないわけではなかったが、元いた商社からさらに小さな会社に天下って仕事をしていたり、地方に移住したり、息子夫婦と一緒に住んで孫の世話に忙しいという者ばかりだった。
 もともと会社で知り合い、景気がいいときに一緒にドンパチやった仲なので、今頃あっても昔話をするだけで、あまり面白い結末にはならないのだった。
 家人が朝から出かけてしまうと、昼飯を食う気持ちもなく、妻から頼まれた掃除洗濯など忘れたふりをして、ただ四人掛けのダイニングテーブルに向かって、座っているだけの時間を過ごしている。知らぬ間に陽が傾き始めて、赤い光が正面の窓から顔を刺している。コーヒー豆があったはずだと探してみたが、日が経ちすぎているのか、袋の口を開いても香りがまったくしない。それでも、少しはコーヒーの味がするだろうと、小さな豆挽きで豆を挽く。豆を挽いている間は集中して何も考えずに済んだのだが、挽き終わると、挽く前以上に部屋の中がしんと静まり返ったように思えた。湯を沸かしゆっくりと落とした酸味のきついコーヒーを飲むと余計に一人であることが意識されて、コーヒーを飲みながら知らぬ間に涙を流していた。
 この家の中には自分以外誰もいない。四人掛けのテーブルに一人で座っている。コーヒーは不味く、そのカップは赤い陽に照らされている。なんという心細さだろう。笠原は小さく息を吐いた。その息が最期の息のような気がして、慌てて息を吸う。吸ったり吐いたりを繰り返していると、息苦しくなった。
 笠原は長く深く細く息を吐いてみた。最初に、スッという音がして、喉の内側の上のほうが刺激され、渇いた咳が二つでる。咳は一つでいいものを二つ出たことで、いつか息することもおぼつかなくなるのかと思うと、また涙が流れた。
 たまらなくなって、二階への階段を昇ってみた。思いのほか辛く、また咳が出そうになる。上まで昇って回れ右をすると、同じようなゆっくりとした速度で、今度は階段を降りた。昇りほど辛くはなく、降り切る直前の三段ほどは少し体が揺れて、階段降りを楽しんでいるかのような気持ちになる。不思議だなと、もう一度階段を昇る。昇ったら降りる。降りたら昇る。不思議に心細さが薄れ、奇妙に楽しい気持ちがした。ゆっくりと昇って、さっきよりも、勢いをつけて階段を降りる。楽しい。心細さが消えて楽しさを感じる。しかし、昇るときにはほんの少し哀しみのようなものが戻る。戻った哀しさを降りることで弾き飛ばす。哀しい、楽しい、哀しい、楽しい。そうこうしているうちに足がからんで、笠原は階段を踏み外した。自分が階段を昇っているのか降りているのか、もうわからなかった。