※前回、10月号からの続きです
「No such people exist(そんな連中はいない)」はチェチェン共和国の首長ラムザン・カディロフの、あるインタビューにおける言葉だ。「そんな人たち」、はチェチェニアの同性愛者のことで、そんな人たちがもし存在するならば「血を浄化」するため彼/彼女らを「連れていく」べき、と続ける。
ドイツに拠点を移すことを決めた2022年、ベルリンでロシアに関する作品を──ロシアのウクライナ侵攻によりヨーロッパから阻害され、同時に母国ロシアからも阻害されることで、二重に追放された人々にまつわる作品を──作ろうとしていた。クィアなら意図的に前線に送り込まれる、というロシアの徴兵を逃れてベルリンに移り住んだ人々と連絡をとり、当事者コミュニティとの仲介を買ってでてくれる協力者にも恵まれた。しかしいざベルリンに到着してみると、そこはパレスチナ問題の泥沼に変わっていた──というより何十年も放置されていた泥沼がさらに深く、大きく、日常の景色を呑み込みつつあった。ベルリンの南ノイケルンで、それは決して誇張ではない。イスラエルによる大規模なガザ攻撃が始まってすぐ、ノイケルンでは激しい抗議活動が行われ、逮捕者が続出し、クーフィーヤ(アラビア半島社会で身につけるスカーフ状の装身具)をまとう女性が襲撃された。
ドイツでイスラエルとシオニズム運動を批判し、パレスチナを擁護することは重大な政治的タブーだ。ベルリンでは一時親パレスチナ・デモが禁止されたが、のちに憲法違反であることが指摘され撤回された。それでも、親パレスチナ・デモは違法、というイメージはベルリン市民に強固に刷り込まれ、この問題に関心がないか避けようとする人ほど、そのイメージを手放そうとしない。そのずっと後に知り合ったパレスチナ難民から、ドイツで滞在許可が欲しければ、「わたしはパレスチナ人です」という質問欄にチェックを入れなければならず、チェックを入れればその人は「国籍なし(ステイトレス)」として処理されると聞かされた。ドイツという国では、パレスチナという国家も、パレスチナ人という人々も、はじめから存在しない。
一年間という在外派遣期間中、大量死と芸術とジェンダー、というぼんやりとしたテーマを設定し、第一次大戦の女性芸術家の活動の調査から始めて現代のコロナ禍やロシアウクライナ戦争へ、ゆっくり手を伸ばしていくつもりだった。しかし、パレスチナのもうひとつのグラウンド・ゼロと化したベルリンで、自分がなにをすべきか本気で迷った。「すべきこと」などないのが表現の営み、とわかってはいても表現以前に、目の前の現実に応答しなければ生きていけそうにない、とまで思いつめていた。一歳のこどもと密に過ごすはじめての時間が、そして移民として過ごすはじめての暮らしが、わたしの身体と心の皮膚をひどく傷つきやすく、侵されやすいものにしたのかもしれない。
長い冬のあいだ、息を殺すようにしてパレスチナとレヴァント(西洋から見た「中東」とはもう言わない・書かないことにしたので、代わりにこの言葉を使う)の歴史を学び、パレスチナ詩人たちの朗読会に出かけ、数々のドキュメンタリーを観た。アパートから15分くらいのところにSonnealee /ゾンネアレー、通称アラブ通り、という街区があって、強面のアラブ男たちがたむろするカフェやシーシャショップに入る勇気もないまま、雑貨屋や菓子屋をうろうろと見て回った。要するに、わたしはパレスチナはおろか、レヴァントともイスラーム文化とも何の縁もゆかりもない、というだけなのだが、それでも、どきどきしながらクーフィーヤを巻いて徘徊するアジア人に、「ビバ、パレスチナ!」とか、「よう兄弟!」などと声をかけてくれる人もあった。
思い返せば、いままで取り組んできた仕事に関して、自分が出来事の当事者だったことは一度としてなかった。わたしはいつでもよそ者で、第三者だったが、今度ほど心細さを感じる仕事はなかった。表現者としてパレスチナのことをしよう、と思った瞬間、何を作るかは決まっていたが、肝心の一歩が踏み出せない。季節は巡り2024年の春になってようやく意を決し、パレスチナ会議(Palästina Kongress)の主催者に、これこれこういう作品を作りたいので協力者を紹介してほしい、と連絡した。
パレスチナ会議はパレスチナの歴史を紐とき、パレスチナ問題に関する学術研究やアートの実践を紹介しながら連帯を呼びかける、三日間にわたるシンポジウムとワークショップで構成されていた──はずだった。わたしが連絡した時点ですでにチケットは完売していて、当日券も千人待ち、と主催者から伝えられたのを、食い下がってプレスパスを発行してもらい報道陣として入れてもらえることになった。会議初日、小さな会場で記者発表が行われた。駅を降り通りを会場に向かって歩いていくと、100メートルにわたって警察車両が並び、会場前ではシオニスト団体と政治家が街宣車を出してイスラエル国旗をかざし、抗議活動を行っていた。今思えばこの段階ですでに十分なきな臭さが漂っていたのだが、翌日、別の会場で始まったシンポジウムではベルリンにおける現実の厳しさをいやというほど突きつけられることになった。
(つづく)