年が明けて、『夢の中で目を覚まして -『アフリカ』を続けて①』が印刷・製本されて完成して、ゆっくり、ゆっくり売っている。よく話していることだが、私は何かを残すために本をつくっているので、別にたくさん売れなくてもよいのだが、印刷・製本にかかった費用を回収できるくらいまでは早く売らないと後が大変だ。現時点では、それまであと少し、といったところだ。つくるのは簡単だとしても、売るのは相変わらず難しい。しかし、書店営業をしない、即売会に出ない、イベントに出ないというアフリカキカクの三原則(?)を守りながら、1ヶ月もたたずして「あと少し」まで売っているというのは、じつは、まあまあよくやっている方なのだ。
加えて、いろんな人の文章が載っている『アフリカ』と違って、私の本は人気がないことで有名なので、心配する度合いは他の本より大きい。以前、そんな話をしていたら、ある人が「下窪さんのファンは奥ゆかしいから、みんな少し離れた柱の陰からそっと応援しているんですよ」なんて言っていた。「ファンはその人に似る」とも言うから、もしかしたら自分がそういう人なのかもしれない。否定はできない。仕方がないので、その人たちが少しでも柱の陰から出てきてくれますように、とアフリカの神様にでもお願いしておこう。
じつを言うと、本を買わなくても、この「水牛のように」で大半を読めてしまうのだ。でも、本をつくるということの中にはマジックがあり、熱心な読者のひとりであるSさんによると「水牛の連載は全部読んでいたつもりだったけど、本になって読むと、初めてのような印象」とのこと。2024年3月の「印象的な手紙」のあと、2004年・夏の「徳山駅から西へ」が続くのを「驚くほど、ひとつながりに読めてしまう」とも言っていた。「同じ人が書いているのだから当たり前かな、と考えそうになるけど、それは当たり前のことだろうか?」
本の中に潜んでいる魔法がどんなものかは、本を手に取り、じっくり読んで付き合ってみないことにはわからない。
とはいえ、本という器に収めてしまえば、いますぐに読まれなくても、遠い未来の読者に届いた日にも、その魔法の威力は薄れていないだろうと思う。
さて、晩秋に出るはずだった『アフリカ』次号を後回しにしてしまったが、あともう少し後回しにさせてもらって、また次の、小さな本を制作中だ。
この話は、昨年10月のある朝に始まる。夢の中で、どこかのスーパーに寄ったら、(この連載ではお馴染みの)守安涼くんとバッタリ会った。夢に出てくるなんて珍しい。仕事関係の人たちと一緒のようだったが、少し立ち話をして、何やら自分は「先ほど思いついたんだけど、シングル盤のような本をつくってみたい」と話していた。そうなると例によって、一緒にいた誰かが「だめだそんなの!」みたいなことを言ったのだが、守安的には「いいね」とのこと。それなら、守安涼の本からやってみようか、という話になったところで目が覚めた。
起き上がって、うん、いいかもしれないな、と思った。「シングル盤のような本」がどんな本なのかは、よくわからないのだが、つまりレコードの譬えで12インチではなく7インチ盤ということを言いたいのだろうから、それを本に置き換えると、薄い文庫本かな。「本にする」というと、ある程度の分量があり、「本にまとめる」というふうに考えてしまいがちだけれど、そうではなくて、レコードで言うとシングル盤とかコンパクト盤というような感じでつくりたい、ということを夢の中の自分は考えたのだろうと思った。
そんな感じで、守安涼の本をつくろう、ということらしい。夢の中の話だけれど。
さっそくメールで、やってみない? と相談したら、ちょっと驚きつつも「ぜひお願いいたします。作品のセレクトはお任せします」とのこと。
彼はじつは私が書き始める前から小説を書いていたはずだが、しかし雑誌づくりの活動にずっと付き合ってくれているわりには、あまり書いていない。発掘作業の結果、
斜塔
時計塔
給水塔
管制塔
なつの蝶
という5編がピック・アップされた。『寄港』に載っている3篇と、初期『アフリカ』に載っている2篇だ。中には書いた本人が「ぜんぜん何も覚えてない」作品もあったようだ。20代の、若き日の作品集ということになる。どの作品も、たいへん短い。とくに「斜塔」「時計塔」は殆ど詩のようなものかもしれない。
それから、初期『アフリカ』に載っている雑記をふたつ、ラインナップに加えることにした。
遠い砂漠
夜の航海
このうち「遠い砂漠」は、雑記ではなく小説かもしれないが、小説になる以前のもの、というふうに私は受け取っていた。「夜の航海」だけは、作者の(書かれた当時の)素直な身辺雑記と言える。
これらの文章を久しぶりに読んでみて、何とまあ表現に凝っていること! と思った。彼にとって小説とは例えば、風景をいかに見るか、感じるか、ということなんだろう。若い頃にはそんなふうな議論をしていたかもしれない。懐かしいような気もする。しかし『アフリカ』最新号(vol.36)に久しぶりの小説「センダンの向こうに」が送られてきた日、その精神がいまもしっかり生きて、続いていることに私は驚いたのだった。いまの彼の文章に比べると、当時のものは力が入りすぎている。でも力んで書いているような文章の魅力もある。それは、上手くなればなるほど忘れてしまうことではないか。それをちゃんと残しておこう、いつでも読み返せるように、と思った。
今回、初めて気づいたのは、一人称の「わたし」の中に潜んでいるだろう「少年」への眼差しだ。彼は『アフリカ』を始めた頃にはもう父親になっており、自分の中にある「少年」性は一気に薄れていたろうと思う。でも心の中には、ちゃんといる。それを作品の中に書き留めてあるのを確認して、私は何だかちょっとホッとした。
本のタイトルは『夜の航海』。企画段階で私が仮にそう呼んでいたのが、そのまま採用になった。「夜の航海」とは、ユング心理学で言う「人生における困難な時期」のことだそうだ。この本には何か人生に直接役立つことが書いてあるわけではなさそうだが、「困難な時期」にふと手にして、読むと、仄かな慰めくらいにはなるだろう。ふざけているようなことを言ったり書いたりするのが好きな作者なので、思わず笑ってしまうようなフレーズともくり返し出合える。
その本を2月に完成させて、3月2日に岡山市で行われる「おかやまZINEスタジアム」に守安くんの屋号「Huddle」で出店することになっている。『アフリカ』最新号と近年のバックナンバー、『夢の中で目を覚まして』をはじめアフリカキカクの本をいろいろと持って行く予定だけれど、「アフリカキカク」で出るわけではないので、三原則を破ってはいない。いや、少し破っているかもしれない。そんな原則は、たまに思わず破ってしまうくらいでいい。