まだ2月だというのに20度近くまで気温が上がったかと思うと、その3日後には雪が降るという。それでも気の早い菫が咲き始め、毎日のように見に行かずはいられない。菫が咲いているのは、とある駐車場の片隅である。住んでいる町の駅からすぐのところにスーパーマーケットがある。道を挟んだところにスーパーの駐車場があり、そのまた奥にもうひとつ駐車場がある。駐車場と言っても荒れ果てたもので、格別陽当たりがよいというわけでもなく、それでも午前中は少し日差しがはいるのかもしれないが、なんならタバコの吸い殻や空き箱が投げ捨てられているような場所なのである。この近所で知る限り、毎年いち早く花を開き秋にも花が見せるのは、この駐車場の片隅のアスファルトがひび割れているところに棲む菫で、時期がくれば、まだかまだか、そろそろかと、この駐車場に日参することになる。かがみ込んで小さな菫の花を眺めながら、何もこんなところで、とは思う。しかし、こんなところでとか思うのは人間の勝手な価値基準に照らした言い分であって、菫自身には何の関係もないことである。菫にとってみれば、そこがアスファルトのひび割れの間であろうが、吸い殻が散乱していようが、菫にとって、その個体としての菫にとって生育する条件を充分に満たしているからこそ、そこで育ち、花を咲かせ、種をこぼし、冬には根を残して休眠し、または葉のまま冬を越して春にまた花を咲かせるのである。
歩く人でありたいと思う。人間の中に入っていくよりは、道端の植物に出会うために歩きたいと思っている。背中のリュックサックには本が数冊入っていて、重い。時々自分でも嫌になるくらいに重い。もちろん歩いている間に、その本をすべて読むわけでないが、これが今の自分の頭の中だから読みたいと思った時に、ない、というストレスを感じるよりはと半ば諦めて背負って歩いている。これはもうずっとそうなので、私の身体は本の重みで歪んでいる。左肩が上がり、右肩が下がり、明らかに右半身に負担がかかっている。だから、たとえば写真を撮ると、自分では水平をとっているつもりでも、若干撮った画像は右に傾いた映像になってしまっている。写真を、または動画を仕上げる時、この右が下がった傾いた映像を水平に補正するのだが、ここでふと立ち止まってみる。確かに水平がとれている映像は安定しているだけでなく、均整がとれていて美しいと感じるし、実際ある程度の三脚にはどれも水準器が搭載されていて、わたしたちはその水準器で水平をとって撮影を行っている。水平がとれていない映像は、どこか落ち着かず気持ちわるささえ感じるものだ。それだけではなく、水平がとれている映像は、フレームの存在が消えて撮られた対象そのものを見ることになる、そう思える、のに対して、そうではない映像は、撮られた対象よりもフレームを強く意識してしまう、つまり撮影者の存在を強く意識してしまうことになる。そうだとすれば、一体ここでは、われわれの認識の中では、何が起きているのだろう?
水平であることが撮影者を透明にする。厳密に水平であることは不可能にしても、水平がとれているように見える映像には。それが撮影対象だけを意識させることになるのだとすれば、こう言うことは可能だろうか、撮影者が透明な存在になることは、対象への「愛」なのだ、と。「無私」と呼んでいいか分からないが見つめる存在は姿を消し、対象への「愛」だけがそこには残る。水平がとれている映像の「美しさ」とは。このような対象への「愛」に裏打ちされているのかもしれない。しかしまた、水平に映像を補正することで否定されているのは、私の「身体の歪み」であり、「私の身体」でもある。
もう少しこのぐだぐだとした逡巡を許してもらえるなら、何らかの身体的な在り方で「水平」にカメラを支えることができない人は、どうなるのだろう。その映像はついに水平であることは出来ずに不安的に揺れ、傾く。その人が撮る映像は美しくないのだろうか、撮影対象を「愛」することはできないのか? 少なくとも水平にカメラを構えることができる身体を持つ人のようには出来ないのだから。またそのような人が撮った映像を水平に補正した時、そこで否定されているのは、その人の身体の在り方だろう。わたしたちが持つこの感覚や認識は、自分たちがだいたい水平にカメラをかまえ、水平に両眼で対象を見ているという、そういう言い方が許されるのならば「健常者」の感覚の中でかたち作られた感覚や認識なのではないか。しかし、どんな「身体」も少なからず何らかの歪みを持っていて、厳密な「水平」などとりようがないはずだ。
今日もまた私は歩き、しゃがみ込んで植物を写真におさめる。撮った写真はわずかに右に下がっている。その傾きを補正するかどうかを迷いながら、これは闘いなのだと思う。しかし、私は何と闘っているのだろう? この「歪んだ身体」のまま、対象を愛することはできるだろうか?