話の話 第24話:破綻している

戸田昌子

ある時、木製の小さな本棚を買った。本棚と言ってもせいぜい、文庫本やCD用といった感じの小さなもので、片手で持てる程度の軽いものである。買ったのは近所の古道具屋さんで、ナイスミドルというよりは初老くらいのおじさんがひとりでやっていて、古いブリキのおもちゃやチューリップランプなどが所狭しと並んでいるような店である。なかなか素敵なものを買えた、と意気揚々と本棚を小脇に抱えて帰宅すると、それを見た夫が「なにそれ、なにに使うの?」と尋ねる。考えもしなかった質問に、返答に詰まるわたし。「それは、これから、考えるんじゃん……? 欲しいから買ったのであって、使うために買ったわけじゃないよ……」などとぶつぶつ言っていると、ふむふむとうなずきながら夫「なるほど、目的はともあれ、欲しいから買ったわけだね。さすが、手段のためなら目的を選ばない女って感じだ。かっこいい」などと、わかったようなことを言う。

そうでなくても、わたしはいつも「あなたってこうだよね」と、わかったようなことを人に言われがちである。先日、年なりにぼんやりしてきた母と、父の淹れたコーヒーをゆっくりとすすっていると、わたしの手の中にあるカップを指さしながら母がとつぜん「そのカップ、まあちゃんが作ったの?」と尋ねた。「え? 違うよ?」とわたしが答えると、母はなぜか自信満々に「あら、まあちゃんが作ったのかと思ったわ。こんな破綻したものを作るのはまあちゃんと相場が決まっているのよ」と言い始める。わたしは確かに、陶芸体験などが好きで、出かけた先でヘンテコなカップを作って持ち帰ったりするので、言わんとすることはわからないわけではない。そして確かにわたしの手の中にあるこの白いカップはでこぼことしていて、あちこちにひっかかりがあって持ちやすいが、確かにどこか破綻している。が、しかし……などと考えていると、「だいたい、まあちゃんって人は、なんでもうまくやるように見えて、みーんな破綻してるからね」と、母は確信を持って繰り返す。そこまで言われると反論のしようがないので、とりあえず目の前にあるチョコを口に放り込んで、もぐもぐする。たしかにわたしは破綻しているかもしれないけれど、決して破天荒ではないのですよ、と心の中で言ってみたりする。

マカロンを200個作ったことがある。幼稚園のバザーで、なにか手作り品を提供して売ることになって、つい期待に応えようと「わたしマカロン作れますよ」と言い出してしまったのである。とりあえず言ってはみたものの、マカロンなんて1個や2個だけ作っても仕方がないし、10個や20個作っても焼石に水だと考え、とりあえずはアーモンドプードルを1キロばかり買ってみた。ちなみにみなさん、マカロンって何でできているかわかりますか。主な内容物は、卵の白身とアーモンドプードル、そして粉糖なのだけれども、フワーッと膨らんだあのお菓子、1個あたりのアーモンドプードルの分量はおよそ3グラムなのです。つまりアーモンドプードルが1キロあれば300個以上、作れてしまうのです。色は食紅でつけ(余計なものを入れると膨らみません)、中身はチョコレートのガナッシュやジャムなどの粘性のあるペーストを挟めば、たいていは美味しくできる。とりあえず作れるだけの量を作ってみよう、と作り始めて、試しているうちにバリエーションを作るのが楽しくなってしまい、いつの間にか量産体制に入り、しまいには結局200個のマカロンを製造し、その翌朝、幼稚園に届けてしまいました。お父さんお母さんたちは喜んでくれたようだったけれど、それはむしろ、「あっけにとられていた」というべきだったかもしれない。

量産というのではないけれども、若い頃、100人分のご飯を作ったこともある。アメリカにいた時のことである。ルームメートのクリスティーナは当時、コロンビア大の院生で、ポルトガルと日本への留学経験があり、ポルトガル料理と日本食を作るのを得意としていた。そのため、コロンビア大学が、アジア研究を専攻する大学院生が集まる全国的なカンファレンスのホスト校になった時に、打ち上げパーティの食事担当になった。「マサコ、炊き込みご飯と照り焼きチキンを100人分作りたいから、指導してよ!」と言い出すので、「炊き込みご飯って普通はごぼうとかしいたけが必要だけど、ニューヨークじゃ、予算内では手に入らないよ? どうするの」と言ったら「オーマイ! そうよね、どうしよう」と頭を抱えるので、「どうせ本物の炊き込みご飯なんて食べたことある人なんていないんだから、コーンバターご飯とグリーンピースご飯でいいよ」「え、そんなんでいいの?」「本物の炊き込みご飯をがんばって作っても、アメリカ人が美味しいって言うはずないでしょ? どうせ、んー、なんかヘルシーだね、味薄いね、とか言うだけよ」「そうか……」というわけで、炊き込みご飯はコーンとグリーンピースの簡略バージョンに決まった。しかし問題は照り焼きチキンである。「照り焼きチキンってアメリカだとポピュラーだけど、あれはほぼチャイニーズメニューだから、日本の家庭料理の定番ではないよ?」とわたしが言うと、「わかった!ネットで調べる。自分でやる!」とクリスティーナは去っていった。一抹の不安を抱えて見送ったが、数時間後、クリスティーナは「マサコ……これって照り焼きチキンかなぁ……」と自信なさげにオーブンをわたしに見せる。そこにあるのは、1リットルほどの醤油水に浸かったチキンの大きな塊で、どうみてもチキンの醤油煮(しかもすごく甘い)である。「レシピ通りなんだけど」と言うのでレシピを見ると、確かに500ccのごま油と500ccの醤油、それと同量程度の砂糖がたっぷりと入った醤油水にチキンを浸してオーブンで3時間火を入れるように、と書いてある。「そんなばかな」とあっけにとられるが、「どうしよう、あと1時間後にこれを会場に持っていかないといけないのに」とクリスティーナは焦っている。「んー、わかった、このチキンの醬油煮もそれなりにおいしいし、お肉だけ持って行けば? あとはわたしが適当にタレを作るから、それをかければどうにかなるから、先に行って」と指示して、クリスティーナを大学へ行かせる。残ったわたしは、その醤油ごま油水を片栗粉で固めよう、と考えるが、片栗粉はない。小麦粉でいいかな? と考えたわたしは、鍋で温めた醤油水に小麦粉を思い切ってダボンと投入する。温まるうちに次第に固まってくる醤油水。そしてだんだん分離していくごま油。なるほど、水分が凝固すれば油分は分離するわけか、そりゃそうだわ、しめた。と思ったわたしは、すかさず分離した油をシンクに捨てる。固まった砂糖醤油水を味見すると、なるほど、照り焼きチキンの味になっている。よし、とタレをタッパーに入れて徒歩5分の会場に届け、チキンの上にダボダボと流しかける。「おー、シェフが来たー」などと揶揄されながら(わたしはクリスティーナの料理上手なルームメートとして、当時、わりと皆に知られていた)、テーブルセッティングのお手伝いをする。「マサコ、この照り焼きチキン、すごくおいしいよ!」とみんな喜んで食べてくれる。そうですかそうですか、それただの醤油と油の小麦粉ゼリーで、しかもそれチョコレート並みにカロリーが高いよ、ということは黙ったまま、なるべくミスティックな笑顔を浮かべて立っていることにする。

ちなみにこのパーティ会場はButler Libraryといって、1931年に建てられたコロンビア大の象徴的な建造物である。打ち上げパーティに参加した100人の発表者たちは、その夜、天井まで並んだ本棚のあるホールで、わたしとクリスティーナの作った苦肉の策の「炊き込みこ飯」と「照り焼きチキン」を食べ、酒を飲んで、ガンガンにかけられた音楽に合わせて踊り狂ったのであった。ちなみに、男子学生によるストリップショーもあった。男子が酒を飲むと脱ぎたくなるのは日本でもアメリカでもそうそう変わらないようである。

その翌朝、わたしがButler Libraryに行って本を読んでいると、前夜、ストリップショーをやった男子学生のディヴィッドがわたしをみつけて隣にすわった。「なぁ、昨日の夜の大騒ぎが幻のようじゃない? みんなおれがあそこで脱いだことなんか知らないで勉強してるんだぜ」とニヤニヤしながらわたしに耳打ちして、去っていく。

最近、母の代わりにご飯を作るようになった父は、それまで、ほとんど料理をしたことがなかった。数年に一度、母の留守を預かった時などに、なんだか水分の多すぎる肉じゃがのようなものを作っていたようなことはあったけれども、それ以外にはみたことがないので、きっと料理の才能がないのかな、とわたしは思っていたくらいである。しかし、最近は必要に迫られたせいで、ネットでレシピを検索しては器用にいろいろなものを作っているようだ。特に味噌汁の味がとてもいい。そんな父が、「そういえばね……」と話し始める。「イナダさんの旦那さんって人は、ほんとうに何もしない人でね。奥さんが風邪引くとね、枕元に座って、がんばれ〜、がんばれ〜って言って、励ますんだって。でもね、イナダさんとしちゃぁ、ご飯のひとつも作って欲しいじゃない。でもね、奥さんの枕元で、がんばれ〜、がんばれ〜って言っているだけなんだって」。それはまた、なかなか可愛げがある旦那さんだが、あまり役には立たなそうだ。

ご飯といえば、ある時、わたしは真っ青なホットケーキを作ったことがある。何がきっかけであったか、さまざまな色の食紅を手に入れた時に、青の色素だけはなぜかやたらと強い発色をするのが面白くて、いたずら心を出してホットケーキに混ぜてみたのである。色は真っ青だけれど、中身はただのホットケーキ。味にはなんの問題もないので娘に振る舞ったら、実に評判が悪く、食べ残してしまった。「だってまずそうなんだもん……」と言う娘に「美味しいのに! 目をつぶって食べたらただのホットケーキよ!」とわたしが言うと「なんで目をつぶって食べないといけないの……」と、ぶちぶちと文句を言われた。視覚に欺かれてはいけないよ、娘。

視覚といえば、ブルーライト用メガネを外した娘が「現実って高画質だよねえ。4Kくらいあるんじゃない? もっと?」などと言っている。そりゃまあ、われわれともに、視力は1.5以上ありますからね、現実は4Kくらいはあるんじゃないでしょうか。

この娘さんはわりとツッコミが激しくて、わたしが「とうさーんがーくれたーあつきおもいー、カーサーンガークレターアノーマナーザーシー」(「天空のラピュタ」の主題歌)などと歌っていると、「どっちにしても、なにかカタチのある物はくれないんだね」などとコメントして去っていったりする。

ある日、「あたし神に愛されてるからさ」と娘が言い始める。勢いづいたわたし「そりゃそうよ、ママがいるんだからあなた人生チョラクなのよ、大船に乗ったつもりでいなさい。わたしが漕いであげるから。人生という荒波を渡っていく大船を……」と言っていたら、すかさず娘「大船なのに漕ぐのかよ、遣隋使か」
うーん、確かに。

もうじき3月になるというのに、降雪の予報が出ている。空は曇ったかと思えば急に明るくなる。気まぐれで浮き沈みが激しいのはまるでわたしの心のようだ。そんなことを考えていると娘「今日パパと話していたんだけど、ママはうみのようだよね、触らなければ問題はないけど、触ると・・・」ほうほう、そうかそうか、触ると波立つ海(La Mer)か、なかなか詩的なことを言う。と感心して聞いていたら、娘「違うよ、ウニ。触ると刺を出す」と、訂正されてしまう。
わたしはウニは食べられないのに、理不尽なことである。