しもた屋之噺(278)

杉山洋一

世界は我々が生まれ育ってきた土壌とは違う、別の時代へと変化しつつあるのかも知れません。2014年、爆撃で亡くなったシマーという女の赤ちゃんを知り、「悲しみにくれる女のように」という曲を書いたとき、ガザはまだ街としての形態を残していました。今、映像で流されている荒涼としたガザの姿とは違っていました。つい三日前でしたか、6人の赤ちゃんが寒さで亡くなったという報道もありましたし、逆の立場で無残に殺されたイスラエル人市民や子供もいます。第一次停戦期限は明日に迫っていて、どうか戦いが再開されないことを願います。10年前、黄金の米大統領像や札束の降る摩天楼、トランプ・ガザホテルや、イスラエル首相と並んでリゾートビーチの映像を、嬉々として米大統領がインターネットに投稿する時代が来ようとは思ってもみませんでした。ウクライナから連れ去られた子供たちは、侵攻から3年を経てどこで何を考えているのでしょうか。生まれたとき、敵も味方もなかったはずの子供たちに、憎しみと怒りを学ばせているのは、我々自身だと省みています。多国間の諍いに限らず、我々の周りにはびこる殆ど全ての衝突は、結局我々が子供たちに教えてきたものなのかもしれません。

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2月某日  ミラノ自宅
暫く前から、母がずっとやめていたピアノに再び触り始めた。「インヴェンションとシンフォニア」第1番からさらい直し、少しずつ練習を進めて、今年1月初めには3声のシンフォニア15番が終わって、現在「平均律」2曲目をさらい始めたところだそうだ。家人に相談して使いやすい運指の出版譜を挙げて貰い、「平均律」は市田儀一郎氏の校訂版、シューベルト「即興曲」はヘンレ版を町田に送ったところ、自分のための新しい楽譜を開いたのは70年ぶりだと大喜びしている。その昔、自分が購入した「平均律」は350円だったが、今は随分高くなったものだ、と驚いた様子だ。父の方と言えば数日前、突然足が鉛が入ったように重くなり、全く上げられなくなり引き摺っていると聞き、下肢静脈瘤を疑い病院に行くよう強く勧めたところ、普段より養命酒を多く飲んだだけで治ってしまったらしい。年末、顔面神経痛になった時もすぐに治ってしまったし、父の生命力には特に目を見張るものがある。
このところ、息子は食事のとき、自分が復習している音楽史の内容を、たびたび食事中に話題にする。もうすぐ口頭試問が近づいているからだろう。尤も、彼の音楽史の理解は多分に個人的な隠喩に基づいていて、「ベートーヴェンは自分が天才だと思っていたが、シューベルトは人前で演奏するのは好きではなく、友人たちとささやかに演奏会を開ばかりで、貧乏であった。友人たちの為に書き、友人たちと演奏した。自分はシューベルトのような人間である」とのたまい、「『さすらい人』や『冬の旅』のように、シューベルトはこの世の中に絶望していて、生きる場所がみつからなかった」。「モーツァルトは初めウィーンのドゥオーモ脇の高級アパートに住んでいたが、最終的には困窮を極めた生活で、部屋もとても小さかった。この調子だと、きっと我々親子3人も路頭に迷い、貧困のなか悲しく息を引き取るに違いない」。
どうして、モーツァルトの生活状況が我々に投影するのか定かではないが、僭越ながら多少なりとも光栄な気もする。ところでお父さんはベートーヴェンとシューベルトのどちらが好きかと尋ねるので、一概には言えないがシューベルトではないかと答えると、お父さんは性格も暗いし、シューベルトに親近感を覚えるのは当然だ、と一方的に断言される。お父さんの性格が暗いかどうかも判然とはしないが、果たしてシューベルトの音楽は暗いのか。「ロザムンデ」序曲を思い出しながら、そう独り言ちる。長大な似非ロッシーニ・クレッシェンドを、素直に馬に跨って愉快に登っていってはいけないのかしら。
ところで、今年はべリオ生誕100年なので、エマヌエラから言われて息子は音楽院で「Linea」を弾くらしい。今日は2番ピアノのYangが家に来て、4時間ほど熱心にリハーサルをしていた。ミラノ国立音楽院は、べリオの学び舎であった。
息子と遅い夕食を食べていると、彼は目の前の夜空全体が茫と薄明るいのに気づいて早速ChatGptに質問している。AI曰く空気汚染が原因だそうだ。確かにそう言われてみれば、明るい方向は高速道路の環状線が延びているが、関係あるのだろうか。

2月某日 ミラノ自宅
家人と連立ってガッジャ通りの物件を見にゆく。栗崎さんに紹介してもらった宅地建物取引士のフラーヴィオに見分を手伝ってもらいながら、広間の真ん中に大きな樹がそそり立つ、不思議な青い家を訪ねた。家の斜向かいはスワッピングクラブで、周りはアマゾンなどの大きな倉庫が並ぶ一角。周りにあまり住宅がないため夜道は寂しいほどで、静かにたたずむスワッピングクラブのささやかなネオンは寧ろ有難いくらいであった。しかしながら、驚いたのはフラーヴィオが家人の恩師、メッツェーナ先生の風貌そっくりだったことである。顔だけでなく、物腰も話し方も、なんなら声色までも似ている。骨格が似ているのだから声も似るのだろう。不思議な気分であったし、メッツェーナ先生が何だか助けに来てくださった心地になった。

2月某日 ミラノ自宅
朝から家人と連立って学校まで自転車を漕ぐ。Yさんが別の音楽院との契約関係でうちの学校で仕事ができなくなり、急遽家人とその昔、家人にピアノを習っていた絵理ちゃんに頼んだ。久しぶりにお会いした絵理ちゃんは、ノヴァラとミラノの音楽院を卒業した後、スカラの研修所も見事に修了したばかりで、見違えるように頼もしく、何より家人と並んでピアノを弾いている姿に深い感慨を覚える。彼女がイタリア語を話すと、自然にトスカーナのアクセントが交るのがチャーミングだ。これは彼女が初め、シエナの外国人大学でイタリア語を学んだから。ここでトスカーナのアクセントのイタリア語を聞く感じは、東京で聞く北陸あたりのアクセントの印象だろうか。無意識に、どこか知的な感じを受ける。
昼過ぎ、マクリーがレッスンにシューベルト5番を持ってくる。未だ掌には神経が戻っていないので、指揮棒も必死に握っていなければ落ちてしまうし、ページをめくるのも不安そうではある。敢えてピアノを弾きにきた絵理ちゃんには予め何も説明せず厳しくレッスンをしたが、障碍には一切気付かなかった。これはマクリーには大きな自信をもたらしたに違いない。
隣のレッスン室でギターを練習している生徒がいて、ギターを全く弾けなくなった自分が無性に悔しくて辛い、とこぼす。手に繊細な神経が通っていないのなら、手はあまり動かさずに、顔の表情で音楽を表現させようと試したりもしたが、どうやら普通に指揮棒を振るのが一番効率がよいようだ。
自分に残されている演奏の可能性は指揮だけだ、と必死になっているので、妙な焦りを一旦拭い去ろうと腐心している。未だ時々、脳の伝達経路が一時的に麻痺することもあり、自分の思うように手が動かなくなることがある。神経は、使っていれば少しずつ通りが良くなるのは知っているから楽観はしているが、本人はさぞ辛いだろう。
そんなマクリーだが、この3年近くの闘病生活と並行して、ブリアンツァ各地に小さな音楽学校を既に3校も開校し、それぞれ順調に伸びてきていて、もうすぐ4校目を開校させると言うから愕く。ギターを弾けない、教えられない鬱憤を、起業活動で発奮させているというのである。「生活かかってますし」と白い歯を見せて笑うのをみて、彼独特の明るさも逞しさも垣間見られる気がした。すぐに、彼の学校の学生を集めて、小さなアンサンブルを振る機会くらいは作れるに違いない。身体のリハビリには、モチベーションがなにより大切だ。
正しくきちんとやろうとする習慣は、幼少からギターを習っていた、厳格な先生の影響だという。きちんとやるのが悪いとは思わないが、そうでなくても身体の緊張を取ろうとしている時に、間違えたらいけないと思うだけで、身体が硬直するのは避けたいところだ。正しいかどうかはさておき、先ずは自由に喜怒哀楽を音に反映させてほしいと思っている。そのうちに、神経の通り道も増えて、少しずつ身体の自由を取り戻してゆくはずだ。

2月某日 ミラノ自宅
家人と連立ってアッフォリ・Villa Annaの隣の物件を訪ねた。ここに40年来住んでいるというご夫婦はイタリア人の奧さんとイギリス人のピアニスト・作曲家だという。何時でもピアノが弾けるようとても上手に考えて作ってあって、コンドミニアムの中庭に一軒だけ離れのように建てられている家そのものに不満はなかった。ただ、2人が暮らすために完結していて、3人で暮らすとなると難しいかもしれない。そこからほんの少し先にある食堂La Deliziaに入って昼食を食べたのだが、9.5ユーロのランチはとても美味しかった。こんな昔ながらの食堂で従業員がみなイタリア人なのは、ミラノでは既に珍しいかもしれない。昔、ミラノに住み始めた頃は、こうした食事処が沢山残っていたし、実際とても美味であった。今は、フランチャイズ店のネオンばかりが目立つようになって、イタリア人のレストランというと高級店ばかりになってしまった。明日は父の誕生日だが、朝から一日仕事なので、寝る前に家族揃って電話をする。
トランプ大統領と石破首相会談。「仮定のご質問にはお答えをいたしかねます、というのが日本のだいたい定番の国会答弁でございます」。昨日あたりからドル安の影響を受けてなのか、ユーロも下がってきていて、家人は為替に一喜一憂している。

2月某日 ミラノ自宅
一日学校でレッスンをしてから、ブレンタ、サン・ルイージ教会の集会場でリハーサルしている、ジュゼッペのちいさなオーケストラの練習に顔を出す。コンサート・ミストレスを引き受けているリリーアは、ウクライナのオーケストラ出身だと聞いた。隣で娘が一緒に弾いているのだが、リリーアの夫は兵役でウクライナから出られない。ウクライナ人にあっても、以前のように気軽にウクライナについて応援するのも憚られるようになってきている。結局、何をどういったところで、一人一人置かれている状況も違えば、思考も一つではない。生命がかかっているのだから、他人が気軽に口を挟める内容ではない。みなで音楽に没頭している時間、彼女たちが少しでも辛い思いを遠ざけられたらよいとおもう。
ちょうど日本からA君が遊びにきていたので、少し彼にも練習をつけてもらう。演奏中、無意識に自分が距離を取った途端、オーケストラも醒めて遠くへ逃げてしまうのを実感して、「怖いものですね」。場慣れしている安心感もあるが、最初から互いに出来る範囲でしか勝負してくれないと、演奏者も諦められているように感じるのかもしれない。本来、演奏者が指揮者に求めるものは、日常のルーティンではなく、非日常の何かではないか。予定調和を大きく外れ、想像もしなかった次元にまで演奏者を誘うのは指揮者の役目である。指揮者が一瞬でも醒めれば、演奏者もさっと醒めてしまう。「自分はこうしたい、どうしてもこれがしたい、ここまで演奏者と辿り着きたい」と指標を指し示してから、それを目標に演奏困難の箇所を丹念にほぐしてゆく。
相変わらず、音楽史の勉強に忙しい息子が、家人に話しかける。「お母さんシューベルトの『鯉』って弾いたことがある? あれ?『鯛』だっけ?『鯰』?」
ナマズとマスは確かに響きは少し似ている。子供の頃、玄関の脇の水槽で5、6匹の鯰を何年も飼っていたことがあるから、鯰には愛着がある。シューベルトの「鯛」と言われると、どうも食べ方や味が気になって、歌詞が頭に入って来ない。

2月某日 ミラノ自宅
悠治さん「オルフィカ・フォノジェーヌ」CD発売日。尤も、パッケージは直接日本に送られていて現品がないので実感はないが、数年前に波多野さん、小野さん、栃尾さんと、何をしようか、と話し合った時の計画は9割方実現できたことになる。あとは宙に浮いている楽譜を、図書館なりどこかでしっかり管理してもらって、必要に応じて誰でも簡単に使えるようにしておくこと。

2月某日 ミラノ自宅
朝方、家人が銀行へ小切手帳を作りにいったきり、なかなか帰ってこないので気を揉んでいたところ、銀行員たちと四方山話に花を咲かせていたらしい。家人は日本でもイタリアでも、初めて会った人と容易く仲良くなる。家人のような人を「人たらし」というのか良く知らないが、周りに彼女を助けてくれる人が自然と集まってくる。人懐こいだけではなく、拘泥や人見知りがないのが、人の胸襟を開かせるだろうが、毎度感心させられる。不思議なのは、家人と知り合ったころには、全くそんな印象は持たなかったことだ。
いまごろ東京では、湯浅先生お別れの会が開かれているに違いない。手を合わせ、先生の顔を思い出すと、頭の奧で、湯浅先生の声が聴こえる。柔らかい声色で、自然について話している。宇宙について話している。戦争について話している。自作について、コスモロジーについて話している。武満徹について話している。瀧口について話している。電子音楽について話している。オーケストラのための「軌跡」について話している。先に逝かれた奥さまについて、話している。
トランプ大統領がゼレンスキー大統領を「選挙をしない独裁者」と呼んだという報道があった。まさかその所為ではないだろうが、円が急騰している。

2月某日 ミラノ自宅
朝方、市村さんからメッセージが届くと、岡部真一郎先生の訃報であった。思わず狼狽えていると、「岡部先生がいなかったら、今のあなたもいなかったでしょうからね」と家人が呟いた。
初めて直接お話ししたのは、武生のちいさな仏寺であった。参加していた音楽祭の演奏会にでかけたところ、岡部先生の方から、数日前に演奏された拙作を面白かった、と人懐っこい笑顔で声を掛けて下さったのが切っ掛けだった。美紀さんとお二人でミラノの拙宅に遊びに来てくださったこともあって、我が家をとても気に入っていらしたのが強い印象を残した。昨夜遅く意を決して、拙宅を設計したサンドロに退去とメールを認めた翌朝に逝去を知り、思わず因縁すら感じてしまった。その折、家向こうにある運河沿いの食堂Ma.Si.で、プーリアのパスタと馬肉のソテーを食べたのではなかったか。とても美味しそうに召し上がっていらしたのが忘れられない。どんな演奏会にも足を運んで下さって、演奏会が終わると一言励ましの声をかけて下さるのが常だった。悠治さんの作品演奏会の企画者として、助成申請の推薦文をお願いしたのは岡部先生だった。今となってはそう書いても差支えはないだろう。功子先生のために書いた協奏曲を、「功子さんが輝いてみえるね」、そう岡部先生はとても喜んでいらした。
昨年は、春先に大きな鳩菓子、もといコロンバを一つ、岡部先生にお届けしたが、召し上がれたのだろうか。そのすぐ後に催されたタネジを招いての武満賞の演奏会の折、体調不良で来られないのでマークによろしく伝えてほしい、とお便りを頂いた。最後に岡部先生と撮った写真は、二人でコロンバを嬉しそうに掲げている姿だ。あの時、「またぜひミラノにご飯を食べにいらしてください」、とつい言葉をかけてしまった。いつも少年のような悪戯っぽい岡部先生の顔にほんの一瞬、困った表情が過った気がして、なにか失言したかしらと反芻していた。
朝、A君が市立音楽院を訪ねてくれて、少し話す。なんだか二週間前にくらべてずっと頼もしく見える。明日日本に戻るそうだ。

2月某日 ミラノ自宅
義父の誕生日。85歳のお祝いのメッセージを送ると「めでたさも 中くらいなり おらが春」と返ってきた。
訃報がとめどなく届き、諍いは続き、今まで自分が正義と信じていた価値観も崩れ、世界が音を立てて変化しているのを感じながら、自分は息子に何を残してゆけるのだろうか、若い人に何を残してゆけるのだろうか、と考えるようになる。生前三善先生は、50歳を過ぎたら自分が学んだことを、社会に還元していかなければならないと話していたそうだが、実際自分がその立場になってみると、先生の言葉は、実際は生物の本能に近いものなのかもしれないとおもう。還元してゆく、それは意識というより、やっておかなければ、という薄い焦燥感とでも謂おうか。作曲も、今書いておかなければ、という畏れに近いものに駆られて書いている気がする。息子の成長をつなぐ視点も、どこかそれに近いものがある。見ておかなければ、伝えておかなければ、という焦りなのか。恐らく死んだとしても、暫くはその辺でふらふらしながら、息子や近しい人たちを黙って眺めている筈だとわかっているから、焦る必要はないはずだが、不思議なものだ。
鬼籍に入った方からの電子メールは、いつまでも生前のままのエネルギーを宿していて、それは何か破局的な事象に見舞われない限りずっと続く。でも遠い将来のある一点で、ほんの一言、検索ワードがわからなくなっただけで、コンピュータのシステムが古すぎるファイルを読み込めなくなっただけで、溌溂とした電子メールは溌溂としたまま、誰の目にも触れる可能性を閉ざされるのかもしれない。目を見開いたまま、無限の時間に放りだされてしまうのかもしれない。ガラスのなかで、頭脳だけが生き続けるのと同じように。それはそれで恐ろしい。人工知能であれば、いざ知らず、我々はいつか安寧に塵芥になれるはずと信じて生きているのだから。
それならば、紙に書きつけられて、少しずつインクが薄くなって見えなくなる方がいい。古くなった墓石がいつか入れ換えられ、その際には墓誌も一掃して、「先祖代々の墓」と一括りにされるのは、本来自分には結構向いている気がする。自分は何者でもないということを、馬齢を重ねるごとに実感するようになり、これからの人生をどう生きるのか、というのは、自分のうちのなにを、次の世代に伝えてゆくかを自ら選択する作業なのかもしれない、と思う。完遂できるかすらわからないけれど、本能に導かれる不安とも、悦びともつかぬもの。
自分は人生の岐路に立っている気がする、と義父に書き送ったが、もしかすると、我々、人間、人類そのものが、大きな岐路に立たされているのかもしれない。

2月某日 ミラノ自宅
「岐路」という言葉を綴って、ふと思う。岐路というのは、分岐点を意味するわけでしょう。後ろにだって本来は戻れるのではないのかしら、と。でも多分、それだけは出来ない。我々はまだ時間軸を逆行、遡行する能力はもっていないのだから。ちょうど、奈落へと向かう無限のゆるい下り坂を、皆で一緒に下っている塩梅で、目の前が二股に分かれている感じかもしれない。
目に見えないその薄い勾配こそが、我々を無意識に焦燥感に駆らせる原因なのだろうか。
中学生の頃、ずいぶんお世話になった吉田先生という、年配の指圧の先生がいらしたのを思い出す。がっしりした体格で、面はほそく、15センチ、いや20センチあろうかという、白くて立派な顎髭をたくわえていらした。奥さまを肺がんでなくされてから、古風な囲炉裏のある一軒家に一人で住んでいらした。自分では何も憶えていないのだが、その頃、身体中が痛くて、歩くのもやっとだったらしく、吉田先生にずいぶん指圧をしていただいたお陰で、自分なりに躰の仕組みやら動きを理解するようになったのだと思う。それを基に、指揮や演奏の身体の動きがわかるようになって、ひいては、聴覚訓練の授業でも身体の硬直についてたびたび話しているのだから、考えてみれば今の自分の生活の基本とも言える、とても有難い経験であった。
レントゲンを撮ったりしたが、何もなかったから、今にして思えば成長痛だったのか。先生からいただいた数枚の銀の小皿やら、五客の湯呑、茶筒などはまだ両親の家で大切につかっている。指圧だけでなく、剣道の教師もしていらした吉田先生だが、突然面白いことを仰った。
「君が大きくなったら、いつか僕のことを書いてちょうだいね、約束だよ」。子供ながらに、この先生は本当に妙なことを云うと驚いて、おそらく曖昧に相槌を打っていたのだろう、この言葉だけは未だによく覚えている。半世紀以上生きてきて、そんなことを云われたのは、あの時一度きりだ。どこか浮世離れした、仙人のような先生でいらしたけれど、あの言葉は、何だか不思議な魔法のように、今も耳に残っている。

2月某日 ミラノ自宅
聴覚訓練クラス試験。結局その内容は、音を聴覚にとらわれず、敢えて視覚化して認知する訓練、それを出来るだけ意識化させて理解させる訓練、そこに無意識や潜在意識を介在させないように意識化させる訓練、と言えるのだろうか。音を聴覚を通して捉えようとすると、意識していなければ、われわれは思わず自分の脳が発する音を聴いてしまい、外界の音と脳で作り出された音の間に少しずつ落差が溜まってゆくのだ。
単純な設問ばかりなので、普段は気を抜いて授業を受けていた絶対音感を持つ学生たちが、試験で軒並み崩れてしまう。絶対音感を持っている自覚があると、音をわざわざ目の前に投影して視覚化する必要を感じてこなかったのだろう。単純で簡易な次元ならそれでもよいが、一定の境界線を越えると、それでは音楽として処理しきれなくなる。つまり単なる音になってしまって、音楽にならなくなるのである。中途半端に絶対音感があると視覚化するのが難しいのは、その必然性を実感できないからかも知れない。最初なかなか出来なかった学生たちが、授業を受けるうち、音を聴くのではなく、次第に見るようになってくるのは、目の前で眺めていても面白い。
複雑な和音が鳴ったとき、音を聴いていると、どうしてもぐしゃりと一塊の音の群に捉えてしまうところが、音を見ていると、それらを視覚的に整理し直して、すっきりと和音として捉えることが出来る。密集した音であれば、視覚的に少し拡大してみることで、音と音との間に通気できる空間を穿つこともできるし、幅広い音響体であれば、俯瞰して全体を見渡すこともできる。密集した音を、無理に聴こうとすればするほど、音どうしが粘着して呼吸を遮断する。要は、ちょうどコンピュータ画面のようなフレームを目の前につくって、そこに音を投影して、自分の好きなようにそれを観察すればよいのだ。もちろん、そんなことを試験中に話すわけではないが、いつも試験につきあってくれるマリアンナやクラウディアは、そうやって音の感じ方を教えられるといいわよねえ、と毎度面白がってくれる。
家に帰ると、「最近ね、なんか自分に感動しているんだよね」、と息子が真面目な顔をして話しかけてくる。「自分がまたイタリア語で授業を受けて解るようになる日が来るなんて、想像もできなかった。だってイタリアの中学をやめて以来じゃない?」。音楽史の口頭試問のため、古代ギリシャから18世紀までの要点を、彼はイタリア語で纏め直していて、全部合わせると28ページにもなっていた。ヤコポ・ぺーリ以降、イタリアに関しては特にオペラの歴史について、特に細かく覚えなければならない。鍵盤音楽史、鍵盤音楽教本史、のような授業が別にあって、そちらでクリストーフォリ前後から現在までの鍵盤音楽関係を網羅している。口頭試問だから、まず大まかに答えればそれに対してより踏み込んだ質問が返って来て、その繰り返し。理解していなければ答えようがない。
初めの頃は本当に授業が分からなかったの、と尋ねると、全く分からなかった、と言う。親としては、それはそれでどうなのか、とも思わなくもないが、とにかく彼曰く、漸く全体が色々と見えてきて腑に落ちるようになったのが楽しくて仕方がないらしい。霧が晴れてくるような感じなのだろう。
ドイツ連邦議会選挙で与党社会民主党、惨敗。中道右派「キリスト教民主・社会同盟」第一党、極右と呼ばれる「ドイツのための選択肢」第二党へそれぞれ躍進。

2月某日 ミラノ自宅
なんかね、変な夢を見たよ、と息子が起きてくる。町田の祖父母がイタリアの宮殿みたいなところに住んでいて、ああよく来たね、と息子を歓迎する夢だという。息子まで家探しの夢に翻弄されるようになってしまった。こちらも先月はずっと寝ながら家探しで魘されていたようで、家人曰く、毎日のように物件探しの寝言を呟いていたそうだ。或る晩は、派手な格好に仮装した日野原さんが突然庭から現れて吃驚した。その拍子に思わず大声を上げたらしく、隣で寝ていた家人も飛び起きてしまった。ミラノの日野原さんの家から道一本隔てた先にある物件を見に行ったからだろうか。
ミラノでは、今住んでいるジャンベッリーノ地区と並んで治安の悪い、コルヴェット地区のとある物件に興味を持っている。あの辺りは戦後まもなく、ミラノ市が新興住宅地として地上1階と、タベルナと呼ばれる背の高い地下室をもった建売りを随分作ったようだ。土地はミラノ市のものだったが、当時は各区画の住民に無償で借地権をわたし、一定期間の後、住民が土地をミラノ市から買取るのが普通だった。そんな住居の名残がつい最近まで数軒残っていて、その内2軒は暫く前まで新しい極左翼の若者活動家たちの拠点、「Corvaccio Squat 」と「Rosa Nera」、つまり「コルヴェット愚連占拠団」、「黒薔薇組」となっていたと知る。
10年ほど前、警察機動隊が彼らを強制退去させた際のヴィデオは、今も見ることができて、若者活動家らは屋根に登って横断幕を掲げ、徹底抗戦していた。近隣の住民は騒動に巻き込まれて、機動隊から暴力を受けた、などとインタヴューに答えてもいる。「こいつら機動隊と来たら血も涙もない。あんたも見ただろう」、黒マスクをした若者が、隣から口を挟む。
こうした活動拠点はイタリア語で「Centro Sociale」、「社会センター」と呼ばれ、イタリアでは80年代から90年代に隆盛を誇った。実際に若者が使われなくなった建物を不法に占拠することもあれば、後に、国や地方自治体がそこに寓する若者たちを、公正な住人として追認する場合もあったというから、我々の思う過激派のアジトとも違ったのだろう。
去年の11月も、この地区の若者が警察に追われる際に交通事故で命を落とし、この地区全体の若者が揃って警察に激しい抗議を繰り返した。
閑話休題。件の物件の最初の居住者はとある一姉妹だったそうだが、随分昔に亡くなっていて、その後2回ほど譲渡が繰り返されているらしい。80年前に提出された登記だから何箇所も不明な点があって、とにかくミラノ市から該当書類が届くのをじっと待つ。
ロシア軍のウクライナからの撤退を求める国連決議案に対し、アメリカは反対票。

2月某日 三軒茶屋自宅
久しぶりに、ミラノから東京までの直行便に乗った。隣に生後五か月の小さな女の赤ん坊を連れた日本人女性が座っていたが、ずいぶん周りに気を遣っていらした様子だし、あまり話しかけるのも悪いと思い、こちらも日本に戻ってすぐに仕事なので、何時もの通り、さっさとアイマスクと耳栓をして暫く眠り込んだ。ふと気が付くと、隣のツアー客と思しき女性が、通りかかったスチュワーデスに、隣の男はどうも赤ん坊が迷惑そうだから、わたしと席を変わった方がよいのでは、と言っている。別にこちらは赤ちゃん嫌いではないですから問題はない、と答えると、彼女の傍らに坐っていた同じツアー客と思しき女性と、あらまあ、いやあねえ、と顔を見合わせている。こちらも、起きているときは仕事をしているし、にこりともしないで作曲のことを考えたりしていて、よほど怖そうに見えたのだろう。ニューヨークに戻ったスティーヴからメッセージ。今日からリンカーンセンターで「三文オペラ」を振るという。「トランプ、完全にどうかしてしちまってるよ、全く。イタリアに戻ろうかとも思ってる」。アメリカはEUに25%の関税決定。

(2月28日 三軒茶屋にて)