借りている鍵で玄関を開け、入る。人の住まなくなった家は、ひんやりしている。でも、叔母の気配はまだ感じられる。この家の匂いも。昨年8月に亡くなったあと、ずいぶんと荷物は整理され押入れの中だって空っぽなのに、まだ残っている家具や家財、洋服のたぐい、そういうものに降り積もっている塵や埃から匂いが生まれるんだろうか。気配をつくり出すのは、部屋の隅っこ、カーテンの陰、戸棚の後ろにたまっている淀んだ空気なのかもしれない。
この家に通うのは、叔母の残した作品の小さな展覧会をやることに決めたからだ。叔母が通っていた教室の早坂貞彦先生は、5年前に宮城県美術館の現地存続運動をいっしょに闘った人で、会って叔母の話になるたび、「おもしろい絵描いてるんだから、作品展を開いてやるといい」といわれてきた。たしかに70歳になってから絵を始め、相当の集中力で取り組むようすには目を見張るものがあったし、年を追うごとに作風が自由で奔放になっていくことにも驚かされていた。5年ほど前だったろうか、意を決して知り合いのカフェ・ギャラリーを借りようと決め、叔母に作品展を開きたいと持ちかけたのだが、こう返された。「私ね、90歳近くになって、やっとじぶんのことだけ考えてればいい自由を得たと思ってるの。ありがたいけど、私の時間の邪魔はしないでね」。残された時間を思えば、もう誰にも気を使うことなく、ただひたすら画用紙と絵の具で遊ぶことに熱中したかったのだろう。黙って引き下がるしかなかった。
もういいよね、私にやらせてね、好きにやるよと、がらんとした部屋で叔母に向かって話しかける。玄関からまっすぐ奥の部屋に向かう。まずは寝室だったこの部屋を空け、額装された作品を並べてみた。奥の納戸から、2階の部屋からあれこれ出てくる。その数40~50点。見たことのない作品も多くて、こんなに描いていたのかと驚かされた。小品ばかりでもない。ただならぬ熱量だ。いったいいつ、どこで描いていたんだろう。晩年、そうだったようにダイニングテーブルの上で? 水彩の小品ならまだしも、大きいアクリル画はたぶん難しい。叔父が元気だったころは、多くの女性がそうであるように制作を途中でやめてテーブルを拭き、食事を整えたのだろうか。そんなふうに中断されて、これだけのものを残せるだろうか。
リビングに行って、外を見る。目の前には叔母がこの20年描き続けた桜の老木が、朽ち果てた姿で立っている。山桜だ。この年老いた桜は、いつもまわりの桜の花が終わり葉桜になったころ、おずおずと枝の先に花をつけ始め、5月に入るころに満開を迎えた。樹齢は200年?300年? いや、桜はそんなに生きないのだろうか。でもたぶん、この団地が整備されるはるか前、この場所が仙台七崎の一つに数えられていたくらい昔から立っていた木。「桜と私とどっちが先に逝くか」といっていた叔母の眼の前で、それもスケッチしている最中に、太く張り出した枝がめりめりと折れ、地響きを上げて崖下に落下した。それからほどなくして桜はつぎつぎに枝を失い枯れ果てて、幹の上半分がなくなった棒きれみたいな不格好な姿で突っ立っている。その姿を眺めながら、ふと、あれに赤い布を被せたらまるでオシラサマみたいだと思う。
奥の部屋の作品を見ながら、まぁこれだけ違った絵をよく描いたもんだ、と感心する。知らない人が見たら同じ人が制作したとは思わないだろう。
当初、染織に親しんでいた時期の作品は、柿渋を塗ったり織物を切ってコラージュにしたり触感的。しかも大胆なアブストラクト。スケッチ会に参加するようになると、黒っぽい輪郭線に淡い色を載せてやわらかな町並みや山並みをたくさん描いた。この団地の上にある仙台市野草園には週に何度も足を運んで、季節季節の山野草を愛情たっぷりにスケッチしている。そして樹木。特に大木に魅せられていたようで、欅の幹を何度も描いている。コンテ、鉛筆、水彩…素材もいろいろだ。桜の巨木は、いろんな姿で登場する。私が好きなのは、幹が鮮やかな緑色に塗られ、血管のような線や鱗のような文様が描かれた一枚。枝と枝の隙間は小さな葉っぱで埋め尽くされている。叔母にとっては生命力そのものを体現するモチーフだったのだ。朝、カーテンを開けては「おはよう、生きてるね。私もまだ生きてる」。そう話しかけていただろう。叔母は団地の坂を上って家に帰る小学生を見つけると、知らない子でも窓を開け「おかえり〜」と声をかける人だった。
亡くなってすぐ、昨年9月の「水牛」にも書いたけれど、叔母は次々と作風を変え、ついに最後はミトコンドリアまで行ってしまった。ふわふわした得体のしれない生きもの。目がついていて自由に動き回るかわいい生命体。画用紙いっぱいに色とりどりのにょろにょろしたものを生み出す叔母は、実に楽しそうなのであった。
こういう変化を私は心境や環境が要因だと勝手に思い込んでいた。大病が重なったり、連れ合いを亡くしたり、つらいことがあったから。でも、いまは、変わろうと思って変わっていったのだとわかる。叔母の本棚に並ぶのは、安野光雅に始まって、野見山暁治、熊谷守一、猪熊弦一郎、小倉遊亀、三岸節子、堀文子の画集や図録の数々。好きな美術家があらわれれば、エッセイを読み、展覧会に足を運び、画集を繰り返し眺め、気づきを原動力にじぶんも描く。その繰り返しのうちに、作風が変わったのだ。まねっこでいいでしょ。ただひたすら興味の向くまま、楽しい方へ。80歳過ぎてこんなふうにいられたら素敵だ。
残したスケッチブックは、おそらく平積みにしたら1メートルは超える。野外にスケッチに出るときだけでなく、入院するときも旅に出るときも小さなスケッチブックを携えていたなんてまったく知らなかった。「入院の朝」と記して、暮らしている山と頂上に立つ3本のテレビ塔を描いている。病室の壁に掛けたシャツをクリーム色に塗って「所在なさに」と添え書きする。
「スケッチブックの中にこんなのあった」と従兄弟の奥さんのヒロコさんが見せてくれたページを見て、2人で顔を見合わせた。「ありがとう、地球さん」「ありがとう地球様」。これが緑のサインペンで8行繰りかえし記されている。そういえば「私、寝る前、ベッドの中でみんなにありがとう、っていうんだよ」といってたっけ。これは呪文?おまじない? 叔母にとってはお経のようなものだったのかもしれない。このお経とミトコンドリアの絵を並べれば、じぶんが生命としてこの星に生まれたことにありがとう、なんだろう。何回つぶやいても、胸のうちのありがとうをいいつくせない。そんな感じ。
「ありがとう、地球さん」は、谷川俊太郎の最後の詩と呼応する。昨年11月14日に亡くなった3日後に朝日新聞に掲載された詩は「感謝」という題だった。「どこも痛くもない/痒くもないのに感謝/いったい誰に?/神に?/世界に? 宇宙に?/分からないが/感謝の念だけは残る」。叔母の胸中にあったのも、静かな感謝の念だったろう。昨日の続きを今日も生きられて感謝。緑色のこの星に生まれてこられて感謝。明日死を迎えても感謝。谷川俊太郎は92歳、叔母は94歳で逝った。
実際、叔母はよく「ありがとう」という人だった。体が動かなくなり全面的に介助を受けるようになっても、「ごめんね」とはいわず、「ありがとう」といった。まだ元気だったころ、遊びに行って帰るときは必ず玄関の外に出て、階段を下り車に乗り込む私を見送ってくれたものだ。あれも、「ありがとう」だったのだ。エンジンをかけ、ウィンカーを上げ、窓を開けて、後ろに向かって手を振った。バックミラーに映る叔母の姿が見えなくなるまで。
というわけで、叔母の作品展の準備のために、まだ気配の残る家に通い続ける日が続いている。仙台のみなさん、ぜひ作品展にいらしてください。私はいつまでも後ろに向かって振る手は下ろせそうにない。
▶私の愛した野草園─髙橋都作品展 とき/3月20日(木・祝)〜4月4日(金)9:00~16:45(最終日は15:00まで) ところ/仙台市野草園・野草館