ほら、うちの学校は昔から演劇が強かったやろ。県の演劇祭にも出て、賞をもらったりしてたらしい。中学の演劇部って、わりと適当なとこが多いから、演劇祭に出ても目立つらしいわ。だいたい秋になると、演劇部が決勝に進んだいうて、野球部とかサッカー部みたいに、クラスから何人か代表で応援に行かされてたやろ。大きなバスに乗せられて。なんでも、演劇部ができたときの顧問がゴリゴリの左の人やったらしいな。その先生がよう言うてたらしい。
「芝居っちゅうのは、みんなが手を取り合った新しい目標に向かうための運動なんや」
なんでも、その初代の演劇部の顧問の先生はもともと役者をやってた人で、東京の演劇界にも知り合いがおったらしい。そやから、たまに関西で公演があったら、知り合いの有名な役者を学校に呼ぶんやて。いまとちごて、中学生いうたらまだまだ子どもや。東京から役者が来るいうたら、知らん役者でもみんな大騒ぎやったらしいわ。そんなんやから、毎年、新入生がぎょうさん入るし、賞も獲るしな。僕らのころは、まだその頃の名残があったんちゃうかなあ。
おまけに、僕らの頃の演劇部の顧問が黒部先生や。そうそう、あのええカッコしいの黒部や。その黒部が文化祭で劇をやるいうたら、演劇部の芝居でもないのに全部チェックしてたらしいんや。そやからあの時も、ほんまは予行演習で黒部と教頭が劇の脚本とか中身とか、合唱のクラスの選曲とかをチェックしてたらしい。うちの担任やった小林先生はチェックされたら、「なんやこれは、ちゃんとした劇をせえ」と怒られると判断したんやろな。「うちのクラスは、まだ見せられる段階やないんです。けど、中身はこぶとり爺さんです」言うて誤魔化したらしいわ。絶対、あとで学年主任と教頭に怒られたと思うけど、小林先生、どっちも大嫌いやったからな。
僕、一回聞いたことあるねん、小林先生に。「先生、黒部のこと嫌いでしょ」
そしたら、小林先生はニヤッと笑いよった。
「おかしいやろ」
「なにがですか」
「日本の西洋の演劇はだいたい左翼が始めたんやで。チェーホフとかな。ああいう、ロシアの演劇が共産運動と一緒に流行ったわけや。ということは、黒部先生も左翼の端くれなわけよ。そやのに、劇をチェックするって、検閲やんけ。僕はそういうのがめちゃくちゃ嫌いやねん。演劇祭で賞を獲ったかどうかしらんけど、ちょっと目立ったら、教頭と一緒に検閲する側におるって、戦時中のアホな軍人と一緒やないか。あかん。絶対ゆるさん」
言うてるうちに、小林先生、本気で腹が立ってきたみたいでな。だんだん顔が赤なって。まあ、そんな小林先生の心づかいで、僕らの芝居は無事に文化祭で上演されたというわけや。
けど、うちのクラスの劇はえらいウケてたなあ。生徒にも保護者にも。まあ、ウケるわな。あんなアホみたいな芝居、僕もいまだかつて見たことないもん。クラスのほとんど全員が舞台に立って、好き勝手に昆布みたいに揺れてるだけやで。
みんな、あんたのおかげで、面白い体験ができたいうて喜んでたけど、ホンマはあんたは賑やかなことが嫌いなだけやった。文化祭の帰り道で一緒になったとき、あんた言うてたなあ。
「妙に盛り上がって、しんどかったな」
そう言うて、なんや知らんけど、えらい寂しそうな顔したなあ。僕はあんたのあの顔が忘れられへんのや。自分で盛り上げといて、盛り上がったクラスに溶け込むわけでもなく、仲間はずれにされたみたいな顔してた。そうか、あんたはあの頃から、まわりとうまいこと折り合いを付けられへんかったんやなあ。
「六甲山がええか、夙川の海がええか、お前ならどっちを選ぶ」
あんたがそう言うたのは、そろそろ僕の家に着くかなと思ったところやった。六甲山か夙川の海と言われてもなんのことかわからへん。僕はしばらくあんたを見てた。あんたも、しばらく黙って僕を見てた。僕がなんと答えたらええのかわからんといると、あんたはまた寂しそうな顔して笑った。
「ほな、また明日な」
あんたはそう言うと僕の家の前を通り過ぎた。文化祭のその日は日曜日やったから、次の日は代休で休みやった。そして、その翌日の火曜日、僕が学校へ行くと、あんたはおらんかった。小林先生から、吉村君は転校しました、いうて短い報告があっただけで、あんたの話は終わった。クラスの男子が何人か集まってあんたの話をしたけど、どこに転校したのか誰も知らんかった。(続く)