話の話 第26話:備えすぎて憂いなし

戸田昌子

わたしはまた、京都に来ている。昨年は、たぶん、6回から7回、京都に来た。回数が正確でないのは手帳に行動記録を書き留める習慣がないからだし、万が一そうしていたとしても、手帳が見つかるとは限らないし、たとえ見つかったとしても、このわたしが手帳を開くとも思えないので、わたしの記憶は決して正確な記録と折り合うことがない。そしてなにはともあれ、わたしは京都に来ている。しかも今回は、帰りの新幹線までちゃんと予約してあるのだ。けれどいま、新幹線予約アプリを開いて確認すると、わたしはどうやら、「また」、こだまを予約してしまっているらしい。ゴールデンウィークだからと言って、今回は用意周到にも、1ヶ月前に行きも帰りも予約したというのに、わたしはなぜ、また、間違えてしまったのだろうか。それは一体、のぞみでしょうか? いいえこだまで……。

ちょうど東京が暖かくなり始めたところだったから、用意周到にも、服はノースリーブまで用意してあった。しかし出発の朝の東京の冷え込みは激しく、こんなふうなら京都はもっと寒いだろうと考え、出発直前にタイツを2枚ほどスーツケースに押し込んだら、案の定の寒さで、すでに防寒着は足りない。しかもわたしが滞在している「下鴨ロンド」は古民家で、まだ改築が終わっていないので、窓ガラスが割れているところもあれば、壁がひび割れているところもあり、さらには天井が抜けているところさえあるため、ほぼほぼ「トポロジー的には外」なのだ。下鴨ロンドはわたしが2年余り前からシェアメイトをしているシェアハウス的な施設で、運用が始まって3年目に突入している。その間、シェアメイトたちは自身でキッチンの床板を張り替えたり、庭の大きな切り株を呑気に引っこ抜いたりしている。そんな調子なので、改築にはあと数年はかかるだろう。そう鷹揚に構えながらわたしは湯たんぽをベッドに仕込み、寒い寒いと言いながら最初の晩は眠りについた。そして翌朝、凍えながら目覚め、ふとカーテンを開けると、窓がしっかりと開いている。なるほど、寒いわけである。

備えあれば憂いなし、という言葉がある。娘が幼稚園に通い始めたばかりの頃だから、3歳くらいだっただろうか。用意周到で失敗をしたくない性格の娘は、トイレトレーニングで失敗すれば、幼稚園に通いたがらなくなってしまう恐れがあった。幼稚園からの指示で、毎朝、予備のパンツを1、2枚持たせて送り出すのだけれど、その数が間に合わずに幼稚園の共有のパンツを借りて帰ってくることが何度かあった。失敗を好まない娘はどうやら、そのことに忸怩たる思いを持っていたと見え、あるとき、「幼稚園のパンツをはきたくない」とわたしに訴えたことがある。それは気づかなかった、悪いことをしたなぁと思い、その翌日、パンツを8枚、小さなリュックに押し込んだわたしは、「どんなに失敗しても大丈夫、間に合うよ」と娘に伝えて送り出した。あとで先生が話してくれたことには、その朝、娘は先生に会うなり「きょうはパンツ、はちまい、ありますから、だいじょうぶ!」と誇らしげに伝え、結局、その日は一度もトイレの失敗はしなかったのだという。それ以来、幼稚園でのトイレの失敗は劇的に減ったのであった。用意周到であることの大切さを学んだ出来事である。

失敗をしないように準備をすることも大切だが、失敗をした場合に、いかにそれを回収するかも大事である。わたしは小学生のころ、鍵っ子だった。6人兄弟だから、全員が鍵っ子でもおかしくないところなのだけど、実はわたしだけが鍵っ子であった。どういうことかと言うと、両親が共働きの家庭だったので、本来ならわたしも学童クラブに入るべきところを、なぜか母は断固として「まあちゃんは学童クラブなんて好きじゃないから申し込まない」と決めつけたのである。「まあちゃんは、家でひとりで本を読んでいたいんでしょう」というのが母の主張で、わたしのほうはと言えばそれほど強い意志もないまま、なるほど母がそう言うのならそうなのだろう、と素直に納得し、ひとり鍵っ子になった(他の子は全員学童へ通っていた)。だから誰よりも早くに帰宅すると、ランドセルの小さなポッケに入っている鍵をひっぱり出して、自分で鍵を開けて家に入るのだけれど、使ったその鍵を、なぜかわたしはしばしば元に戻さなかった。その理由は明らかでないが、帰宅するとランドセルを玄関に放り出し、そのまま玄関で本を読んでいたという、うっすらとした記憶はあるので、そんな調子で鍵をそこらへんに放り出してしまっていたようである。だから鍵がランドセルへ戻らなかったその翌日は、帰宅しても鍵がない、ということが起きる。そんな日は仕方なく、誰か他の子が帰ってくるのを玄関にしゃがみこんで待つことになるのだが、そんなときはもちろん、読みかけの本が役に立つ。そういったことがしばしばあったので、用意周到なわたしは、ランドセルに読み差しの本を入れておく癖がついた。鍵を元に戻す癖はつかなかった。

しかし、帰ってくる他のきょうだいを待てばいいとは言っても、彼らの学童が終わるのは5時ごろで、わたしが帰宅するのはせいぜい3時過ぎなのだから、寒い冬などはかなり辛いものがある。自宅は4車線ある国道に面した三階建ての鉄筋コンクリートのビルだから、裏口もないし、1階は階段に続く玄関スペース以外は店舗貸ししていて、家に入り込むことはできない。そんな隙間は、あるはずもない。いや、ないわけではない。玄関の脇、地上160センチくらいの高さに、明かり取り程度の小窓がある。その窓は隣接するビルに面する壁側についていて、ビルとビルとの隙間は、およそ60センチである。しかしそんな窓から入れるわけがない。いや、入れるわけが……と考えた挙句、ものは試しだと、その隙間に体を差し入れてみた。小学生の子どもの体なので、意外にスイッと入れる。しかし問題は、自分の背丈よりも高い場所にある窓によじ登って侵入できるかどうかである。手を伸ばせば、窓に手は届く。鍵は……開いている。そこで体をよじらせ、ビルの壁と壁との間にうまく突っ張らせながら登ってみる。小さな子どもの体なので、意外にも登れてしまう。慎重に上半身を窓から差し込み、どうにかうまく下半身もすべり込ませる。無事に侵入成功。玄関の鍵を開け、扉の外に置いておいたランドセルを回収して、何事もなかったかのように自宅に帰還したわたしは、やはり本を読み耽り、鍵を探そうとはしないのであった。この玄関窓の鍵についてはわたしはその後「用意周到にも」閉めずに放置する習慣がついた。そんなわけでわたしはその後、たびたび家宅侵入を繰り返すことになる。

関係のない話だが、フランス人はレタスを振る、という話がある。この話がどこにあるのかというと、わたしの妄想のなかにある。どう考えても、フランスに長年在住している姉か妹のどちらかに聞いた話なのだけれど、いまふたりに尋ねても、そんな話をしたという記憶がないと言うので、この話はもう完全にわたしの妄想の中だけに存在する話である。説明すると、まず、サラダスピナーと呼ばれる、まるで洗濯機のように洗った野菜の水を切るための道具がこの世には存在している、というところから話は始まる。もしあなたが水っぽいべちゃべちゃしたサラダを食べたくないなら、洗ってちぎったレタスをこの道具の中に入れ、紐を引いたりつまみをぐるぐる回したりして、水を切るべきである。基本的にプラスチック製のこの道具は比較的近代のものなので、それ以前の人たちはどうしていたか。また、こんな道具がなかった時代の人はどうしていたか、というのがこの話のキモである。ちなみにフランスの集合住宅はキッチンが窓際にあることが多いので、昔の人はレタスを洗うと、ちぎったりせずに丸ごとそのまま窓のところへ持って行き、逆さにして、ぶんぶん振っていたのだと言う。たとえばのんびりした日曜の朝などに、そうやってレタスを窓で振っていると、お向かいのキッチンの窓でも、お隣のキッチンの窓でも、同じようにレタスを振っている人の姿がちらほらと見られる。するとフランス人のことだから、レタスを振りながらおしゃべりを始めてしまうので、延々とレタスは振られ続けることになり、いつまでたっても朝ごはんが始まらない、という極めてフランス的な朝の風景についての話なのだが、このような風景は、用意周到に準備されたサラダスピナーの出現によって消えていったのだ、と言う。しかしこの話をしてくれたのが誰なのか、事実なのかどうかは今ではすでに明らかではない。ちなみにレタスはフランス語では「れちゅ(laitue)」である。フランス人はもうレタスを振らない。もう森へなんか行かない。

昔、「ゲルパーティ」という遊びがあった。あるとき、大学の部室でやることがないままダラダラとしていたときに、先輩の一人が「ゲルパーティをやろう」と言い出した。なんのことかときょとんとしていると、「おまえはゲルパーティをやったことがないのか」と言われ、なんだかよくわからないままに「買い出しをするぞ」と言う先輩についてコンビニへ行くことになった。とにかくゲル状のものをひとり3、4個買うように指示され、ゼリーやプリン、ヨーグルト、しまいには豆腐までもが買われていく。皆で部室へ戻ってくると、じゃんけんで順番を決めてルーレットを回す(用意周到にも、部室にはルーレットが用意されていたのだった)。そしてルーレットの出た目の数だけ、ゲル状の食べ物を選んで食す。ここでいきなり「6」などの数字を引いてしまえば地獄である。1周目でもう脱落者が出ることになる。最初は回避したとしても、2周目、3周目と回ってくれば腹は膨れるし、酒などの回し飲みなどと違って酔うこともないから、盛り下がることこの上ないゲームである。参加者はだんだん白目を向いてくる。最後まで残った人間の勝ち、というルールだったが、勝ったとしても、全然嬉しくないゲームであった。あのパーティがあの部室で、現在でも今でも行われているのかどうかは、寡聞にしてわたしは知らない。

しかしやはり、備えすぎてしまうものの代表は、旅先で読む本の分量ではないだろうか。旅先では、昼は仕事や観光のために忙殺され、夜になれば当然のように酒を飲んでしまうため、本を読む時間などほとんどない。そう考えれば、お供の本は1、2冊で十分なはずなのに、なぜわれわれは最低でも4、5冊、しかも分厚い単行書さえカバンに入れてしまうのか。旅先でカバンの重たさに耐えかねて郵便局で荷物を自宅に送る手配をするたびに、用意周到さもたいがいにしたほうがいいのでは、と自省する日々である。

そういえば、映画「新幹線大爆破」のリメイク版がNetflixで配信されていて、なかなか評判がいいらしい。ちなみにオリジナルの1975年版で爆発物が仕掛けられた新幹線は、「ひかり109号」であったが、今回は東北新幹線「はやぶさ」が舞台なのだそうだ。のぞみでしょうか、いいえひかりで……いやいや、今回は、こだまで帰ります。