やっと日差しが暖かく、外へ出る気分になってきたが、行きたいところも思いつかないでいる。コンピュータの前に座っているだけで、気がつくと日が暮れていく。足が遅くなったのか、眼が悪くなったのか、歩きながら何かを見ようとすると、立ち止まってしまう。
昔グレン・グールドがしていたように、シャツの袖ボタンを外して風を通すことができる季節になった。やはり眼のせいで、ピアノも最低限の練習が要るようになったが、まだその習慣は身につかない。
考えるのではなく、感じることを途切れないように続けられるものだろうか。
コロナ以来、人と会わないでいるのが普通になった、となると、それこそ政治の企みということになるだろうか、と言ってもはじまらない。毎日のように出歩いて、人と顔を合わせ、わずかなことばを交わすので充分としなければ。
ことばが浮かんでくる、とすれば、イメージも音も浮かんでくるかもしれない。フレーズや響きを書き留める。そのページを見ながら、眼にとまる音から思いつく変化形を書き継ぐ。
この数年間、すこしずつ 作曲を続けてきた。ヴィオラのための「スミレ」と、クラリネットとピアノを加えた「移動」(2021)から、世阿弥が息子の死を悲しむ「夢跡一紙」(2023)。シューベルトが母の一周忌に書いた詩による「時」、万葉集の女性歌人による「白鳥の」、ファゴットのための「連」(2024)、バリトンサックスのための「ゆら」(2025)。
音のコラージュを作ろうとしたことがあったが、できなかった。だが、そこにあるものを、そのままではなく、それに似たものに変えれば、少しやりやすくなるような気がする。