昨年7月に『アフリカ』前号(vol.36)を出してから、もうすぐ1年がたとうとしている。正確に言えば前号というより、現時点での最新号である。
あれ、前回と同じ書き出しだぞ? つまりまだ完成しておらず、7月を迎えたということになる。もう殆ど完成していると言ってもよいのだが、まだもう少し待ちたい原稿があるのと(待つことは得意です)、私の家族にのっぴきならない事情があり、これを書いている6月末時点で故郷・鹿児島に急遽、帰ってきている。今回はしばらく滞在する予定で、常用のノートパソコン持参で来た。「そういう時こそ『アフリカ』はやるべきです」と話す方もいて、ありがとう、私もそう思うけれど、無理はしない。動きを止めることなく、ゆっくりと進めている。というよりも、『アフリカ』は自ら航海を進めている。『アフリカ』はいつか出来るので、私は心配していない。
続けるということは、ただ、止めたと思わないで過ごしている、ということなのかもしれない。
しかし東京で活動している外出支援の仕事にかんしては、どうしようもない。半月ほどは休ませてもらう。それでも気持ちは、常に持続していると言いたいのだが。
5日には大船までイリナ・グリゴレさんとアサノタカオさんの話を聴きに行くのを楽しみにしていたのだが、それも参加不可能になったので会場のポルベニールブックストアに連絡して、キャンセルのお願いをした。
事情を話すと皆、祈ってくださっている。
イリナさんの新刊『みえないもの』と、先月の「水牛のように」で越川道夫さんが書かれている江代充さんの本から『黒球』を選んでカバンに入れて来た。滞在中に本をどれくらい読めるか、わからないが、御守りのようなつもりだ。
空の上にいる誰かにもお願いして、助けてもらいたい、と考えて、かつて実家にいた犬たちを思い出した。彼ら2匹と、いま一緒にいる犬と、いまの子供たちとかつての子供たち(そのひとりは私なのだが)を主役にした私家版の写真集を、密かにつくったりもした。それも御守りのようなものかなと思う。
とにかく家族にとって大きな大きなピンチなので、乗り越えようという気持ちになれるかどうかは大きい。小さな本をつくることは気休めに過ぎないかもしれないが、出来ることはやって、つまり私は自分の後悔がないようにしたいのだ。
自分が会社勤めを続けていたら、こうはゆかなかったかもしれない。でも私は、それをおかしいと思う。その程度の予定変更は生きている限りやむを得ないことだ。少し話が逸れたけれど、今回は私が独断で決めて、周囲には合わせてもらい、調整してもらった(ご迷惑、ご心配をおかけしています)。しかしこれが戦時下になると、全員が緊急事態になるので、社会が壊れてゆくのだろうとわかったりもした。
個々の予定変更など、どんどんするべきだ、それが出来る社会を目指すのがよい、というのが私の基本的な考えのようだ。いつ、何が、どうなるかわからない、というのが自然なことである。
せっかくなので家族の話をすると、父は鹿児島市の職員として新卒から定年まで勤めた人で、私は小学生の頃、自分も将来は公務員になるものだと思っていた。それくらい親の影響というのは大きいのだろう。親と同じ仕事をするのは絶対に嫌だと思う子供もいるはずだけれど、それも影響の大きさによるものではないかと思う。
文学をやるのにも何か別に仕事を持ちつつ、と考えたのにも、親の影響があったかどうか。私の場合、可笑しいのは、そんなふうに考えているのに、その一方の「何か」の何をやっても、なかなかうまくゆかなかったことだ。文学の仕事は「何か」の傍らでやっていればよいと思っていたのに(思っていたからか)、続いたので、よくわからない。後から考えると、無理しないで文学に関係する職業を目指せばよかったのに、という気がしないでもないが、そこは根っからの天邪鬼である。自分の仕事に集中することを嫌がっている? でも、例えばいま、13年ほど続けている外出支援の仕事も、言ってみれば、私にとっては広義の”文学活動”と言ってよさそうな気がしないでもないのだが(知的障害のある人たちは、ことばを持たなかったり、持っていても大きく違っていたりするので、私にはとても面白いのだ)。
身内に芸術家のような人はいない。
強いて言えば、叔父(父の弟)が若い頃に絵を描いていた。田舎の家の離れは、元々は叔父のアトリエとして建てたものだと聞いたことがある。私が幼い頃には、すでに物置きになっていた小屋だ。
その父の実家は商店で、「下窪商店」という。その集落に、そのような店は1軒しかなかった。焼酎とビールやジュース、米やパン、乾燥の食材、お菓子、生活雑貨などを売っていた。肉魚などは売っておらず、少し離れた場所まで車で買いに出なければならなかった。野菜は、畑をやっていたから、お金で買うものではなかったはずだ。たまに遊びに行くと、いつも大量の野菜を貰って帰ってきた。
母方の親戚には、学校の先生が多いかなあと思う。母も結婚前に少し小学校の先生をしており、私たち兄妹が成長してからは訪問介護の仕事を長年やっていた。祖母は長年、街中で魚屋をやっていて、私が子供の頃には店の奥にある四畳半くらいの狭いスペースにひとりで住んでおり、遊びに行くといつも新鮮な刺身をたくさん持たせてくれた。祖父は、母が小学5年生の時に亡くなった。
こうやって整理してみると、なるほど、太平洋戦争を生き延びた祖父母は商売をやっており、その子である私の親世代には公務員が多い。ただし、これは仕事がうまくいった人に限った話になるだろう。
うまくいかず精神を病んでしまったような人もいるし、焼酎を飲みすぎてからだを壊した人もいる。私はどちらかというとうまくゆかない方の人生を歩んでいると言えるだろうが、不思議と(少なくとも現在のところは)無事だ。この話はどこへ向かうのかわからない。
家族の写真集をつくってみようと思ったのは、父が、祖父母の若い頃から現在に至る家族の写真を大切に持っていて、今ではスキャン・データまでつくって整理してくれているからだ。ふと思ったのだが、記録を取り、整理して、残しておきたいと思う私のこの性格は、じつは父譲りなのかもしれない。ただし、整然としている父の整理の仕方と対比して、私の場合は雑然としている。おそらく創作とは、雑然とした中にこそ生まれるのだと考えてみたいところだ。