「老子」のなかにある「わらの犬」。草で編み、儀式に使われるが、終わると捨ててしまう。イギリスの政治学者ジョン・グレイ(John Gray)の Straw Dogs(2002)という本を読んだことがあった。
いろいろなことが頭に浮かび、それをまとめようとすると、そのまとめにしばられる。からだで感じることは、刻々と動いていくが、その流れを止めないように、所々に「ことば」の目印を打っておくのは、むずかしい。
即興と楽譜の演奏と作曲の関係にも、似たようなことがある。それぞれが違ったままで、補いあう関係を保つのには、どうするとよいのか。あれこれ試しながら、時が過ぎていく。それについて、こうして書いていても、これという思いつきは見つからない。
見つからないのが当然で、実験を続けることしかないのかもしれないし、それだけでいいとしなければいけないのかもしれないが、即興はともかく、楽譜に書かれたものを、毎回違う発見で補うのは、意識するとできなくなる。指に任せるのが、そして見つけたことをあとでことばにしないまでも、何回か繰り返して、手に手順として覚えさせるのがいいのだろう、と思っても、それができているのか、手順だけで、音としての結果は、毎回違うとすれば、その違いを何が保証しているのだろう。
1970年代からは Max/MSP を使って電子音やサンプラーで変形した現実音で即興をやっていたこともあったが、2005年頃にはそれにも飽きてしまった。結局ピアノに戻っているが、違う弾き方は見つからない。
Finale という記譜ソフトを使っていたが、その開発中止とサポート停止のニュースを見た後では、知っていたはずのやり方も思い出せなくなっている。新しく開発された Muse を習おうとしたが、作曲する予定の曲には間に合わないので、いっそ手書きに戻ろうか、しかし手で書いて間違った場合、そのページを書き直すのが大変かもしれない、と思うだけで手が動かなくなる。
こんなことを書いているよりも、手を動かした方がいいに決まっているだろうから、この辺にしておくが、楽譜という図と記号の複雑に混ざったシステムは、違うシステムを学習するのが時間がかかるので、手書きを思い出すのが、とりあえずは早いかもしれない。
毎月こんなことを書いているのも、気分が良くないから、来月こそ、音楽でない話題を見つけよう。