というわけで、おれは今日、九月一日から素浪人になった。
「というわけで」の「わけ」がわからないヒトは、前号でのおれのバカ文章「お払い箱」を読めばいい。「そんなもの読みたくもない」というヒトは、ひと言で申し述べよう。
八月いっぱい、つまり昨日で、おれはカイシャの雇用延長契約が切れたのだ。もはやこれまで。チーン。
しかしだ。おれの最後のお仕事だった「片岡義男・3冊一挙文庫化」の発売日は、来たる九月十日なのだ。これ、ちょっと複雑な気分ですよ。
だってカイシャにいれば、初速売り上げなどの数字がつぶさにわかるが、カイシャを放逐された身ではそういうのがまったくワカンナイもんね。
まあ、数字に囚われるのはアホらしいと思ってはいるのだが、正直に言えば「できれば多くの人に読んでいただきたいなあ」とは思っているのだ。最後のお仕事だったから、その気持ちはなおさらですよ。
今日はその「最後のお仕事」についてのよしなしごとを話そうと思う。今月の話は長いぞ。しかし、何事にも終わりというものは必ずある。だから辛抱するように。
文庫化したのは、片岡さんが書き下ろして、おれが編集した『珈琲にドーナツ盤』『珈琲が呼ぶ』『僕は珈琲』の3冊だ。
片岡義男は文庫が似合うのだ。
おれは3文庫のカヴァー・デザインを自分でやることにした。最後くらいは全部自分でやりたい。一流のデザイナーに頼むと、自分が思うとおりに修正できないからね。
証拠をお見せしよう。大判のスケッチブックに文庫本と同寸の枠を鉛筆で三つ引いて、文字はWordで打ったものを拡大縮小して切り貼りした。色地および色罫の部分は折り紙を買ってきて、これもハサミで切って糊で貼った。
「illustratorを使えば簡単なのに」
と思ったヒトは一歩前に出て歯を食いしばるように。グーで殴るからね。そんなハイカラなものが使えるわけがない。おれは四十三年間ずっと糊とハサミと鉛筆だ。版下だ。写植だ。活版だ。6ポ・行間8だ。32級・字間ツメツメだ。てやんでぃ。

おれが描いたこのラフを外部のオペレーターに見せて、
「これをそっくりそのままデータ化してくださいね」
とお願いしたら、あら不思議、翌日には寸分違わず入稿用データにしてくれた。すごいなビズリーチ、じゃなかった、オペレーター。
こう書くと、カヴァー・デザインはすんなり進行したのだなと思われるかもしれぬが、さにあらず。このデザインに落ち着くまで、これと同様の緻密なラフ・デザインを10種類手作りしたのですよ。美大出身でもないから、とにかく衝動的かつ好き勝手にハサミと糊と折り紙と鉛筆を動かすしかない。PCで原稿を書かずに、原稿用紙のマス目に鉛筆でひと文字ひと文字、楷書体で手書きしていくようなものだ。ボツになった残りの9パターンのデザインも見てほしいが、おれひとりでスペースを使うのは気が引けるのでやめておく。
「このカヴァー・デザインなら帯は要らないな」
おれはそう思いましたね。文庫の帯は、とかく醜悪で野暮なものが多い。
「映画化決定!」と大きく謳っているが「それがどうした」とおれは思ってしまう。
「50万部突破!」とセンセーショナルに書いてあるが、見えないくらいのサイズで「シリーズ累計」と添えてある。セコイぞ。
「今月の新刊」って、デカデカと帯にいれるのは慣習なのか。ヨクワカンナイ。
「ラスト1行に驚愕!」なんてのは、ラスト1行だけ読めばいいのではないか。
どれも汚い帯によって、カヴァー・デザインのぜんたいがぶっ壊れているではないか。
ああいう帯なら巻かないほうがいい。おれは文庫編集部や販売部にその旨を伝えたが、返ってきた答えは、
「やはり新刊の文庫には帯を巻いたほうが……」
というものだった。どうやら長年の「きまり」らしい。
だがおれは生来の臍曲がりなので、ならば「一見帯が巻いてあるとは思えない帯」にしてやれ、と考えて、写真のような帯にしてやった。いいのかこれで。いいのだ。
片岡さんにカヴァーと帯を見てもらった。通常、片岡さんは本が出来上がるまでブックデザインを一切見ない。その理由は、
「見ると、あちこち注文をつけたくなるからね。それだったらいっそ見ないほうがいいよ」
という実にオソロシイものだった。
だがおれはいつも全部途中で見せて、意見を聞いちゃう。今回、おれはカヴァーと帯を見せながら思わずこう訊いてしまった。
「これでいいですよね?」
すると、片岡さんは言った。
「これで、じゃないよ、これがいいよ」
いやぁ、嬉しかったなあ。
さあ、次は本文組みの指定だ。
「InDesignを使えば簡単ですよ」
と呟いたヒトは一歩前に出て歯を食いしばるように。グーで殴るからね。繰り返すが、そんなハイカラなものが使えるわけがない。おれは四十三年間ずっと糊とハサミと鉛筆だ。あたぼうよ。単行本と文庫の文字組みは違うので、縮小コピーした単行本のページをジョキジョキとハサミで切って、文庫本のサイズを鉛筆で枠取りした台紙にいちいち糊で貼っていきましたよ。本文中には写真がたくさん入っていたので、うまいこと本文の内容とシンクロするように、写真を置く位置もイチからやり直しだよ。奥さん、笑ってますけど、3冊なのでタイヘンなんすから、モー。
写真で思い出した。これがまた、タイヘンだったんすから、モー。
単行本のときは予算のことなど考えずに、複数のフォト・ストック・エージェンシー、映画会社などにお金を払ってジャンジャン借りてバンバン載せていたのだが、出版社にとって文庫というものは「お金をかけずに出版する」ものらしい。そんなこと、ちっとも知らなかったよ。
写真を所有している会社にとっては「単行本と文庫は別物である」が常識らしく、同じ写真をまたカネを払って借り直さなければならないのだ。おれは夢グループのCMに出てくる謎の女性歌手のように、
「シャチョ~、安くして~」
と、各会社に頼んだが、
「いまならシーデーとデーブイデーがついています」
などと言って、値切りに応じてくれたところはまれだった。仕方ない。
そしておれは空気アタマで考えた。
3冊の文庫、それらの本文中には片岡さんが愛聴する音楽が計200曲以上登場する。
これらをすべて簡単に聴けるようにしたら、楽しいのではないかと。そうだよ、楽しいよ。おれなら単行本を持っていても、文庫をまた買っちゃうよ。
いろいろとその方法、可能性を探ったところ、幸いにしてSpotifyに飛ばす二次元コードを3文庫の巻末に掲載すれば、あら不思議、スマホをその二次元コードにかざせば、プレイリストがたちどころに出てきて、そのまま登場順に聴けちゃうことを知った。
おれ自身は音楽を配信で聴いたことがなかったが、これ、便利でとってもいいですよ。いちいち検索しなくても物語に出てくる曲をすぐ聴けるのですから。
早速おれは自腹でSpotifyのプレミアム会員に登録して、慣れない操作で3冊合わせて計202曲のプレイリストを作った。奥さん、笑ってますけど、3冊なのでタイヘンなんすから、モー。でも大丈夫、3冊すべてにそれぞれの本文に登場する曲のプレイリストを完成させたので、それらの二次元コードをスマホでかざせば、新しい読書体験が味わえます。曲目リストも二次元コードと一緒に文庫巻末についています。今ならシーデーとデーブイデーもついています。あ、それはついていません。ゴメンナサイ。
あんまり一心不乱にシゴトしているおれを憐れんでくれたのか、販売部から
「3冊一挙刊行なら、数量限定でBOXセットにして書店に置きましょうか」
という提案があったので、おれは「ワン! ワンワン!」と叫んで尻尾を振った。
もちろんこのBOXもおれがデザインした。展開図を作り、そこに写真、図版やネームをハサミで切って、糊で貼り付けていった。どうでぇ、えっへん。いや、ハサミ、糊、鉛筆で威張ってどうする。でもお見せしたいので、見せちゃいますね。
さて、パーマをあてながら珈琲を飲んでいるこの写真の女性は誰でしょう。ほぼスッピンで、この美貌。おわかりでしょうか。答えは数量限定のBOXの底に書いてありますので、ぜひ早めにお近くの書店で予約をお勧めします。
さあ、ここまできたら書店用POPも自分で作っちまえ。とことん自分でやるぞ。販売部から厳命されたのは「ハガキ大のサイズで」だった。ちぇっ、もっと大きいサイズのPOPがいいのに。なんだったら大判ポスターでもいいのに。ケチ。だが、ここでクサってはいけない。おれは書店用のPOPを研究した。すると実につまらない事実が明らかになった。
出版社が作った書店用POPの大半は、書名が大きく入り、著者名がその次に大きく入り、内容説明がかいつまんで入って、ヴィジュアルはカヴァーを流用、というものだった。
これって、意味なくね? だって、POPってその本のすぐそばに飾られるものですよ。それなのに本のカヴァーと帯の要素がそのままPOPに使われているって、どういうことなのさ。ダブっているだけじゃん。
その点、書店員さんが自発的に書いたPOPは、手書きで「おススメしたいポイント」がきちんと記されているではないか。こっちのほうが温かみもあってずっといい。出版社が作ったPOPは「手抜き」のオンパレードだ。POPを作った出版社の宣伝部の担当者は、きっと本の中身を読んでないのだろうなあ。だからカヴァーと帯に書かれている以上の情報がPOPに入っていないのだ。よおし、おれは書名を一切入れないことに決めた。カヴァー・デザインも流用しない。あらすじコピーも入れないもんね。伝えたいことを二つくらいに絞って、それだけをこれでもかと強調しよう。そう思いましたね。
では、書店員さんの手書きを見習って、おれも手書きPOPを書こうと決めた。世の中の手書きPOPでいちばん優れているのは「ドン・キホーテ」のPOPだとおれは常々ニラんでいる。あのド迫力は類を見ない。でもって、ああいうPOPはまず書店では見かけない。おれはドン・キホーテ風のPOPを試行錯誤しながら何十枚も書いた。いちばんドンキ風に見えたのは下の案だった。

ねっ、値段を入れるとグッとドンキ風に見えるでしょ。書店で本の値段がデカデカと書かれているPOPをおれは見たことがない。これはいいのではないか。「3冊買っても」という文句が、また泣かせるではないか。
ところがこの案は販売部からボツにしてくださいというお願いがあった。理由を訊くと、
「ちょっと、これは、さすがに……」
という、実にスッキリしないものだった。
これは文学への冒涜とでも言うのか。
書店側がアレルギーを起こしてしまうのか。
それとも「楽しくなければ文庫じゃない」というフジテレビ的エンタメ至上主義に映るのか。
おれは仕方なく値段抜きのPOPをさらに何十枚も書いて、いちばん上手く書けたと思ったものを印刷に出そうとした。すると販売部が、
「オーソドックスな案も作ってください。2案を裏表に印刷して、書店員さんに表面を使うか、裏面を使うか自由に決めてもらいましょう」
という、セコイ提案をしてきた。なんだかおっかなびっくりで、腰が引けているとは思いませんか? やむなくおれはきちんとデザインしてフォントを使ったタイプのPOPも作ることになったのだが、おれの意図では「ドン・キホーテ風」があくまで表、つまりA面で、「通常のデザイン案」は裏、B面ですから、書店様、そこんとこヨロシクお願い申し上げますね。「POPは飾らない」という書店も多いので、みなさん、見つけたらレアですぜ。
さて以上、最後のお仕事をかいつまんで話した。
「長い。Grok、3行にまとめて」と言われたら、身も蓋もないが、これでもかいつまんだのだ。
おれにとってはとても楽しい最後の日々だった。
いままでのおれは「どうやったら読者に喜んでもらえるか」ばかりを考えて、雑誌や本を作っていた。ところが、この最後のシゴトは初めて「自分勝手に、きわめて衝動的に、ヒトサマのことを考えずに、自分が喜ぶもの」を作ることができた。
それを徹底したことによって、大袈裟に言えば「自我がかたちを伴ってくっきり見えてきた」ような気がする。これはおれにとって、とても大きな収穫だった。
今日から素浪人のおれが言うのもおかしいが、九月十日以降に書店の文庫売場で見かけたら、手に取っていただければ嬉しいです。手に取って「シノハラの香典代わりに買ってやるか」と思っていただけたら、身悶えしながら昇天するほど嬉しいです。
中身は片岡義男さんの傑作3部作なので、面白いこと間違いなし。3冊まとめて買っても2,816円ときたもんだ。3冊だよ、三! 産で死んだが三島のおせん。おせんばかりがおなごじゃないよ。京都は極楽寺前の門前で、かの有名な小野小町が三日三晩飲まず食わずに野垂れ死んだのが三十三。
どう! ねっ! 3冊買ったらBOXもロハで付けちゃう。これで買い手がなかったら右に行って上野、左に行って御徒町、西と東の泣き別れというやつ。
ね? 角は一流デパート赤木屋黒木屋白木屋さんで、べにおしろい付けたお姐ちゃんからください頂戴で願いますと、五千が六千、七千、八千、一万円はする品物だが、今日はそれだけくださいとは言わない! 3冊買っても2,816円だぁ!
あんまり調子に乗ると片岡さんから「やめなさい」と言われるかな。
販売部から「文学への冒涜だ」と言われるかな。
あ、おれは昨日でカイシャをクビになったんだ。販売部、もうカンケイないんだ。
よぉし、文庫3冊は白が目印。白く咲いたが百合の花。四角四面は豆腐屋の娘。色は白いが水臭い。え、買わない? ダメか? チッ、今日はしょうがねえ、貧乏人の行列だあ!
《この項おしまい》