立山が見える窓(4)

福島亮

 年齢を重ねると味覚が変わるとよくいわれる。とりわけ苦味に対して、その変化は顕著なのだそうだ。たしかに子どもの頃はコーヒーを飲めなかったし、秋刀魚のワタなんて見るのも嫌だった。私の場合、野菜に対する好き嫌いはあまりなく、ピーマンだろうがニンジンだろうがなんでも食べたが、どうしても受け入れられなかったのはフキノトウで、親戚のおばさんだとか近所のおばあさんだとかが、小麦粉に重曹と水を加えてペースト状にし、そこに刻んだフキノトウや味噌を入れて焼き上げた食べ物——「おやき」と呼んでいた——をお土産に持たせてくれたりすると、顔には出ていなかったと思うけれども、残念だった。フキノトウの苦味に加えて、重曹の甘苦い味が嫌だった。思い返すと、粉物特有の、口の中の粘膜から水分を吸い尽くし、しばらくすると今度は唾液と混ざってねちゃねちゃとするところも、苦手だった。おやきなんかよりも、甘じょっぱく仕上げたイナゴの佃煮の方がよほど嬉しかった。皿いっぱいのおやきを嬉しそうに平らげていたのは、母である。そんな母は、ある日、自らおやきを焼き始めた。ことあるごとに外から内へもたらされるおやきが、とうとう家のなかで増殖しはじめたのだ。絶望的な気持ちになった。だから、子どもの頃、フキノトウの季節はあまりうきうきしなかった。気づくと、口の中が甘苦く、パサパサし、次第にねちゃねちゃしていた。

 こんなふうに、たしかに苦味に対する感受性は子どもの頃やたらと敏感で、それを美味しさだと思う余裕もなく、逃げ回っていたのだが、かといって、歳を重ねた今、苦味を美味しいと思っているかというとそうでもない。フキノトウは食べられるし、焼き魚のワタも箸の先でつまんでそのコクを楽しむ程度のことはできる。コーヒーに至ってはほとんど中毒になっているのだが、それでも、それは苦いから美味しいのではなく、別の要因、例えばコーヒーならば、香りや酸味をあわせて、総合的に美味しさを感じている。苦味に対する感受性が鈍って、その結果、下地に潜んでいた諸々の要素が浮き上がってきたのである。まあ、変化といえば変化だが、むしろ劣化というべきか。

 味覚が変化した、と実感するのは、むしろ水の味をうまいと感じる時である。喉が渇いていれば、いくつの時だって水はうまいのだろうが、ここ最近、水を飲んでその味に惚れ惚れとすることが増えた。毎回そうなのではなく、せいぜい一週間に一度程度のことなのだが、氷を浮かべた水の美味しさは、ちょっとした菓子では代替できないほどのものである。

 河出文庫の一冊、『ひんやり、甘味』というあざといアンソロジーを読んでいると、意外と多くの書き手が、こってりしたミルク感濃厚なアイスクリームよりも、氷菓や、しゃりしゃりとした食感の「アイスクリン」への愛着を述べていて、意外と思うと同時に、納得する。食べた後に乳臭さが残るような高級アイスクリームよりも、氷を削ったものにガムシロップをかけただけの「氷水」の方が私も好きだからである。儚くて、淡くて、透明感のあるものこそ、もっとも高貴な甘味だと思う。

 乳臭さで思い出したが、ここ数日毎日楽しんでいるのは、氷入り牛乳だ。作り方は簡単で、グラスに氷をいっぱい詰め、牛乳を入れるだけ。牛乳に氷を入れるなんて、と非難されるかもしれないし、たしかに水で薄まった牛乳はいただけない。薄まる直前の、氷で冷え切ったミルクを一息で飲むのが爽快なのだ。この快感を覚えてから、毎日牛乳を飲んでいる。時には、真夜中、いてもたってもいられず、近くのコンビニに駆け込む。帰宅すると、汗だくだ。銭湯やサウナから出た時に、無性に瓶入り牛乳を飲みたくなることがある。状況としてはほとんどそれと同じ、ではあるのだけれども、心の中ではアレとは決定的に違うのだ、氷入り牛乳はもっと儚くて、淡くて、透明感のある何かなのだと何度も念じ、しかし額から滴る汗はどうにもできず、シャツなんか脱ぎ捨て、挙げ句の果てにタオルで鉢巻をし、あるいは首からタオルをかけて、これじゃあもう風呂上がりの一杯じゃないか、と思いながら、冷え切った牛乳を飲み干すのである。

★お知らせ★
以下のイベントが富山で行われます。ご来場を歓迎します。

今福龍太 公開講演会
「遊動、放擲、声――旅(テンベア)の途上で出会ったものたち」

日時:2025年10月24日(金)
16:45-(16:30開場)
会場:富山大学人文学部第四講義室 人文学部棟2階
予約不要、無料、一般参加歓迎
問合:ryofkshm@hmt.u-toyama.ac.jp
富山大学人文学部福島亮研究室