かつてお台場は恵比寿ガーデンプレイスと並ぶ人気のデートスポットだった。いや、いまだってじゅうぶん人気かもしれないのだけれど、当時はあのエリア一体に向かうところ敵なしのオーラが漂っていて、週末ともなれば大勢の人が押しかけていた。フジテレビの球体展望室、レインボーブリッジ、観覧車、室内遊園地、お台場海浜公園、水上バス、ショッピングエリアをつなぐ巡回バス…見どころがとにかく多かった。街全体が今でいう「パリピ」というか、あからさまに調子に乗った感じで、道ゆく人々や親子連れもなんとなくおしゃれ。街にはヤシの木が植えられていて、海沿いにはハワイ料理を出す店もあり、開放感抜群。ちょっとしたリゾート気分も味わえた。
そんな街の一角には「ヴィーナスフォート」という室内ショッピングパークがあった。1999年開業だからバブルが崩壊して数年後のことである。バブル景気の最中、港区にあったジュリアナ東京のお立ち台で扇をひらめかせていたワンレン&ボディコンの女性たちは、バブル崩壊後にはお台場のヴィーナスフォートの噴水広場の真ん中で身をくねらせる、白肌の石像に変わってしまったかのようだった。エリア内は中世ヨーロッパの街並み風に整えられ、見上げれば空は刻々と色合いを変える演出までなされていた。ディズニーシーと同じで、偽物とわかっていながらテーマ性を楽しむ架空のヨーロッパ。イタリアでもフランスでも現地に行けば本物の街並みを見られるけれど、人が暮らす街は清潔&快適&安全とはかぎらない。だから、お金や時間をかけなくても、おしゃれでちょっとした旅気分を味わえる場所というのは、重宝されるものだ。昭和の人々が、ハワイのかわりに宮崎や熱海、そして常磐ハワイアンセンターへおもむき、温泉もアトラクションもショーも楽しみたい人が船橋ヘルスセンターを目指したのと大した変わりはない。
だがその後、日本経済が低迷するとともにお台場の街の活気も失われてゆく。都市開発が頓挫し、パレットタウンが閉館、ヴィーナスフォートは2022年に閉業した。大江戸温泉物語もなくなってしまった。そもそもそんなにアクセスの良いところではないし、目的がなくても行けばなんとなく楽しい街から、目的がないなら行く必要のない場所になってしまっていた。
ところがそんなヴィーナスフォート跡地が、なんと演劇空間となって生まれ変わったのである。その名も「イマーシヴフォート東京」。館内はかつてのヴィーナスフォートそのまま。噴水広場を起点に放射線状に広がる道の奥に、同時多発的に上演できる演劇空間が広がっている。わたしが参加したのは「ザ・シャーロック」。あのシャーロック・ホームズとワトソンが出てくる、イマーシヴフォートオリジナルストーリー。俳優たちは舞台上ではなく、エリア内を闊歩し自分の時間軸で事件の真相に迫ろうとするのだが、観客は登場人物の誰かについていっても良いし、どこかで油を売っていてもなんとかなる、という仕掛け。過去にわたしはフランチェスカ・レロイ作曲の観客回遊型オペラ「THE鍵KEY」に出演したことがあるのだが、一度に全てを見ることができない仕掛けだったので、リピート希望の方がとても多かった。観客は4つの部屋を自由に観て回るのだが、それでも話の辻褄が合うように作曲家によってうまく設計されていた。上演中は他の部屋で何が起こっているか気になっても見に行くことができなかったし、観客が自分の意思で見聞きするものを選べる趣向の作品がどんな感じなのか、観客として体験してみたかったのだ。
噴水広場で開演時間まで待機し、時間になると体験する作品のゲート受付が始まる。コインロッカーは値段が高いので、荷物は少ないほうがいい。2時間暗い館内を歩き回り、階段を登ったり降りたりするので履きなれた靴がおすすめ。お手洗いは先に済ます。ある程度は水分補給しておく。はじめに真っ赤な照明の当たるバーのような空間に通され、手渡された黒いスカーフを三角形にして折り、目の下から後頭部に沿わせて後ろで結ぶ。この時点で強盗犯みたいな姿になったが、演劇開始後は私語禁止、写真の写り込みで個人が特定されないようにしたい、という主催者側の工夫なのだろう。教会の時計広場に集められ演劇スタート。街の中には疲れたら座れるように椅子の配慮もあったが、利用している人は少ない。出演者はハーメルンの笛吹き男みたいに、行く先々で行列をひきつれて歩くことになるのだが、とにかく早足だ。観客は絶対に走るなと主催者から念を押されているので、走りたくなってもマナーを守り、結局出演者を見逃してしまったりもする。誰かを追っている最中にとつぜん遠くから悲鳴が聞こえたり、怒声が聞こえたりするので、ついてゆく人をその場のフィーリングで変え、また面白そうな人を見つけては話し声に聞き耳を立てる。
事件の真相はちょっとトンデモ系が入ってくるとはいえ、2時間ものあいだ俳優たちと一緒に、中世ヨーロッパの街並みの中で生きている感覚になれるのは、ちょっとクセになりそうな経験だった。終演後はこの演目に参加した人専用のドリンクが配られるのだが、さんざん歩き回った後にのむドリンクがこれまたおいしいのなんの。同じ色のドリンクを飲む人と、自分が何をみたか情報交換できるようになっているらしいのだが、照れ屋には向かない。婚活中の人には、もしかして、きっかけ作りとして有効だったりして。そうだ、あそこで婚活パーティーやればいいのに。ちなみに、2時間歩き回るイベントだったせいなのか、10代~30代の姿が多め。わたしは参加者の中でおそらく最高齢だったと思うが、面白さにつられて2時間歩いても疲れなかった。これ、もしかしたらウォーキングの歩数を楽しく稼ぎたい人にもってこいなのでは…。お台場は一区画が大きいからただでさえ歩くし、さらにイベント中も歩けば、けっこうな運動量になるはず。演劇が好きな人、特定の役者さんのファン、暇さえあればスマホで動画を見ちゃう人、みんなで別ルートを歩いてわいわい答え合わせをしたい人、ひとり遊びが好きな人、ヴィーナスフォートが青春の地だった人、運動量を無理なく増やしたい人、いろんな人におすすめの演劇体験。シャーロック・ホームズのストーリー以外にも面白そうな作品が並んでいるので、自分好みのものを選ぶ楽しさもある。
そうそう、一緒に行った夫はヴィーナスフォートがはじめてだったもよう。エリア内の天井を見上げて、「すごい!!本物の空みたい!!」と無邪気に声を上げていた。その間わたしは、はじめて見たような、そうでもないような曖昧な微笑みでやりすごした。うん、ここは遊びに来たことあるからね。友達とも母とも来たし、えーっと、えーっとあとはなんだっけ。