8月31日といえば、1971年に第1回国際ラーマーヤナ・フェスティバルが開幕した日である。東ジャワ州パンダアンにあるチャンドラ・ウィルワティクタという大野外劇場で開催された。というわけで今回はラーマーヤナの舞踊劇について少し書いてみたい。
●1961年~「ラーマーヤナ・バレエ」
この国際フェスティバルを語るには、この10年前に始まった「ラーマーヤナ・バレエ」から語り起こさなければならない。「ラーマーヤナ・バレエ」は中ジャワ州とジョグジャカルタ州の境目にあるプパランバナンで行われている観光舞踊劇で、現在まで続いている。これは1960年の開発計画を受けて当時の運輸・郵政・観光大臣だったジャティクスモが発案し、国立コンセルバトリ(現在の国立芸術高校)スラカルタ校校長のスルヨハミジョヨが実行委員長となって始まった事業で、このためにプランバナンのヒンドゥー遺跡寺院を借景にする野外大劇場が建設された。ラーマーヤナが演目として選ばれたのは、プランバナン遺跡群の内のシヴァ祠堂の回廊にラーマーヤナの42場面を刻んだレリーフがあることにちなんでいる。そして、国の観光事業として新たに夜行列車が走り、記念切手が発売された。
この「ラーマーヤナ・バレエ」の振付はコンセルバトリの舞踊教師にしてスラカルタ宮廷舞踊家だったクスモケソウォが手がけ、コンセルバトリの学生や教員、クスモケソウォの弟子たちを中心にスラカルタの多くの舞踊家、音楽家が関わった。なお、コンセルバトリが開校したのは1950年で、その指導にはスラカルタ宮廷音楽家が多く参加している。この舞台公演によって初めて、途切れなく続く音楽にのせて、セリフなしで舞踊だけで物語が展開する舞踊劇という形式が発明された。セリフがないのでバレエと銘打たれ、この形式を表すインドネシア語「スンドラタリ」(芸術スニ+ドラマ+舞踊タリの合成語)も作られた。そのため、「ラーマーヤナ・バレエ」は「スンドラタリ・ラーマーヤナ」とも呼ばれる。セリフがないのは、言語が異なる国内外の観客に広くアピールするためである。この舞踊劇はスラカルタ舞踊の新しい型を多く生み出し、当時はまだ学生のジャワを代表する舞踊家サルドノ・クスモ(今は現代舞踊家や画家として有名)やレトノ・マルティ女史(その後ジャカルタに出てパドネスワラ舞踊団を主宰することになる)を輩出したという意味で、芸術史においても画期的な事業である。
●1970年 全国ラーマーヤナ・フェスティバル
1970年9月16~18日、第1回全国ラーマーヤナ・フェスティバルが開催された。会場はプランバナンの劇場である。これは翌年の国際ラーマーヤナ・フェスティバルに備えて実施された。「ラーマーヤナ・バレエ」はスカルノ初代大統領の時代に始まったが、第2代大統領となったスハルト(1968~1998)もこの芸術コンテンツを大いに活用した。この全国フェスティバルに出演したのは、スラカルタ、バリ、ジョグジャカルタ、スンダ(西ジャワ)のグループで、いずれも国立コンセルバトリが置かれた地域である。そして、この4地域は翌年の国際フェスティバルにも出演する。
スラカルタからは当然「ラーマーヤナ・バレエ」のスルヨハミジョヨ&クスモケソウォのコンビが手掛けたが、主役のラーマは初演以来のトゥンジュン氏からスリスティヨ氏に代わった。トゥンジュン氏は海外留学するためだが、他の多くの舞踊家も進学したり他の国際芸術イベントに派遣されたりして(その中には1970年の大阪万博への派遣もあった)人材が少なくなったため、主演級の舞踊家についてはオーディションが行われた。ジャワの伝統舞踊でオーディション選抜とは非常に珍しいが、それだけ力を入れたイベントだったと言える。その結果ラーマに選ばれたのがスラカルタ王家のパウィヤタン舞踊団に所属していたスリスティヨ氏で、氏は1971年の国際フェスティバルでもラーマを務めることになる。
1971年 国際ラーマーヤナ・フェスティバル
そして、1971年8月31日~、第1回国際ラーマーヤナ・フェスティバルが東ジャワ州パンダアンの大野外劇場で開催された。この劇場は芸術活動や観光の拠点として新たに建設されたもので、北にはマジャパイト王国(ジャワ最後のヒンドゥー王国)の王宮、南には様々なヒンドゥー遺跡群が広がり、その遺跡群にはラーマーヤナの物語が刻まれたレリーフがある。プランバナンの劇場はプランバナン遺跡を借景とするが、このパンダアンの劇場は山を借景とし、舞台奥に巨大な割れ門が作られた。この時も記念切手が発行されている。1970年と1971年のフェスティバルが一連のものであることは、1971年のフェスティバル用に製作されたブレティン冊子の中で両方の遺跡がラーマーヤナを軸に1つにつながっていることが強調されていることからも明らかで、この冊子にプランバナン遺跡のレリーフ42枚についても1つ1つ説明がある。
公演スケジュールは以下の通り。開始はいずれも午後7時で、上演時間は1団体1時間~1時間半である。ここでは前年の全国フェスティバルには出演していなかった地元:東ジャワのグループも出演している。実は東ジャワに国立コンセルバトリが設置されたのは1971年なのだ。他の地域は1950年代から1960年代初めまでに設立されている。
9月1日…ビルマ、 インドI、インドⅡ
9月2日…クメール、 バリ
9月3日…マレーシア、ジョグジャカルタ
9月4日…タイ、 ソロ(スラカルタのこと)
9月5日…ネパール、 スンダ
9月6日…クメール、 東ジャワ
9月7日…ビルマ、 インドI 、インドⅡ
9月8日…ネパール、 マレーシア
9月9日…タイ、 東ジャワ
このフェスティバル以降、ラーマ―ヤナはすっかりスハルトを代表する演目になったと言えるだろう。ラーマーヤナは大統領宮殿で国賓を迎えるために上演される演目となり、国際フェスティバルに出演したスリスティヨ氏はその後ジャカルタに移ることになり、大統領宮殿でラーマを踊り続けた。スハルト夫人の創案で、今年50周年を迎えるテーマパークのタマン・ミニ・インドネシア・インダーのマスコットは、ラーマーヤナに登場する白猿ハヌマンであり、スハルト退陣前の暴動を鎮めるために全国で催されたルワタン・ワヤン(魔除けの影絵)の演目はラーマーヤナから取られたものだった。
そして、ラーマーヤナはインドネシア国内を越えてアジア、東南アジアを結ぶ演目となった。ラーマーヤナがインド文明によって各地に伝わったことが絆となり、ヒンドゥー遺跡はそれを思い起こさせるトポスとなった。ラーマーヤナを中心に共同制作する事業はその後もインドネシアの国内外でよく行われている。『水牛』の2003年12月号、2004年1月号に寄稿した「アジアのコラボレーション」では1997~2003年にアセアン文化情報委員会が企画した「リアライジング・ラーマ」という事業について紹介している。