仙台ネイティブのつぶやき(109)記憶の沼

西大立目祥子

子どものころの記憶が胸底に沼のように沈んでいる、と感じることが多くなった。年齢と関係があるのだろうか。何かの拍子に、それが鮮明な映像として立ちあらわれることがあったり、繰り返し頭に決まったシーンが浮かんだりする。

たとえば、しとしと雨の降る晩秋の記憶として思い出されるのは、一幅の掛け軸だ。小学2年生のころの記憶である。そのころ、祖父母は仙台市中心部から西方10キロほどの愛子(あやし)というところに住んでいて、夏休みや正月にはいとこや叔父叔母と集うのが常だった。なぜか、その日は子どもは私一人。部屋で静かに過ごしていると、着物姿の年配の女性が訪ねてきた。細面の尖った顔にメガネをかけたその人は私を見ると祖父に誰なのかをたずねた。息子の…という祖父の答えに合わせるように目を見てあいさつをした。祖母と歳はそう違わないように見えた。

祖父とひとしきり話をすると、その人は持ってきた包みの中から巻物のようなものを取り出し、くるくると畳の上に広げた。それは、筍の絵だった…と書いていぶかしく思う。8歳の私は筍というものを知っていたのかしら。そばに描かれた竹の木はわかったとしても、茶色い皮に包まれた孟宗竹を見たことがあったとは思えない。

すると、ひと目見た祖父が「おぅ、筍ですか」といった。ちょっと弾んだ声だったので、子どもにもこの絵を気に入ったことが伝わってきた。そして「鶴とか亀なんかよりずっといいですなぁ」ともいった。大人になったいまは、もう少し気のきいたことをいえばよかったのになどと思うが、このひと言が記憶に残っているのは、8歳の子どもにも鶴亀は理解できたからだ。女性は「気に入っていただいてよかった」と、安堵した表情で笑った。祖父は愛子に小さな家を新築し、床の間に飾る掛け軸を知人に依賴したのだろう。そうして、筍と鶴と亀は父と子と精霊のように三位一体となって、晩秋の記憶の沼にドボ〜ンと沈み込みいまに至っている。

掛け軸ということばも筍のことも知らなかった私が、長くこの日のことを覚えているのは、たぶん絵がこの家に長く飾られ、さらに引っ越した家の床の間にも下げられていたから。祖父はこの素朴で力強い筍の絵を共感を持って毎日眺めていたのだろう。記憶は、ときおり沼の底から姿をあらわし増幅されて沼の奥底に帰っていった。筍、孟宗竹、掛け軸ということばを覚えるごとに記憶の輪郭は鮮明なものになったのか、とも思う。
 
祖父があの世へと旅立って40年余り。掛け軸はどこに行った?と、何かの拍子に思い出すことがあった。遺品整理のとき処分されたのかもね。毎日眺めて相当傷んでいただろうから…と、そんな話を昨年亡くなった叔母(祖父の長女)の荷物整理を進めるいとこ夫婦に話したら、数週間してメールがきた。これじゃない?押入れの奥から出てきたよ、と。

掛け軸を包んだ日に焼けた新聞紙には、叔母の走り書きで「あやしたけのこ」とあった。そろそろと中を広げると、茶色に焼けところどころにシミができてはいるが、おぉ、黒々とした2本の孟宗竹が姿をあらわした。感動の再会。ほぼ50年ぶりくらいの。記憶の中の一幅の絵が、手繰り寄せられ目の前にある。言い訳のように思う。これは執着とは違うよね。物に拘泥しているわけではないから。何度もあの日のことを思い返すうちに、いつしか物が手元に戻ってくる不思議。8歳の私といまの私を筍がつないでいる。

祖父の思い出はあれこれある。いっしょに住んだわけでもなく特別にかわいがられたわけでもないのに、立ち居振る舞い、何気なく口にしたひと言が沼の底の方に潜り込んでいる。自分と似通っている何かを、子どもは直感でつかむのだろうか。

お茶の煎れ方もその一つだ。祖父がお茶を煎れる手元を黙って見ている10歳の私。その間何か話をしたっけ? まず、急須にお茶っ葉を入れて、つぎに茶碗にお湯を入れて…そんなことを祖父は口にしたっけ? いや…。記憶はおぼろげだ。時間をかけお茶を煎れることを楽しむようすを、押し黙って見ていただけのような気がする。祖父の煎れ方はていねいだった。まず急須に茶葉を入れる。急須とそろいの3つほどの茶碗を並べて、ひとつひとつに魔法瓶から熱い湯を入れゆっくりと冷めるのを待つ。熱過ぎずぬる過ぎないほどよい温度になったら、急須にお湯を移しここで再び待つ。茶葉が開くと、3つの茶碗が同じ濃さになるように茶を注ぐ。はい、どうぞといわれ、子どもの私は初めて舌で茶をころがすように味わったのかもしれない。

このシーンを忘れずにきたのは、それが祖父の家ではなく入院した母の代わりに面倒をみにきてくれた我が家での出来事であって、茶器も見慣れたいつものものなのに母の煎れ方とあまりに違っていたからだ。せっかちでその上、家事に追われていた母は熱い湯をそのまま急須に入れ、そそくさとお茶をついだ。祖父のそれは先を急がないいかにも老人のやり方だったといえるかもしれない。もちろん、子どもの私に祖父が年寄りだからだなんて考えられるわけもなかった。ただお茶を煎れることに向き合う祖父の姿に感じ入っていた。

もう一つ、沼に沈んだこの記憶がときおり水の表面に上がってくるのは、茶器が一つも欠けることなく長く食器棚に残っていたから。白地に勢いのある茶と深緑の手書きの縞が施された茶器は決していいものではなかったけれど、母好みの柄であり私も心ひかれた。筍の掛け軸とは逆で、物が記憶を沼の底から呼び戻すといっていいのかもしれない。

この夏、母の住まいを直して生活丸ごと移すことに決め、猛暑のさなかに引っ越した矢先、母がすべてを見通したように旅立った。母の物、自分の物を残すか捨てるか修行のように決断を強いられる毎日が続いている。捨てられないたちの私が捨てるのは、苦しい。いらないのはわかっている。でも使えるものをゴミにしていいのか?と、素朴な疑問を自分にぶつける日々。もちろん、筍の掛け軸は捨てない。おいしいお茶の時間をつくってくれた茶器も捨てない。捨てない、捨てない、捨てない…。

でも、この捨てられないたちって何なんだろう、とあらためて考え込む。一方には捨てられるたちの人もいるから。言い訳がましくもう一度いわせてもらえば、これは物への執着じゃないよね。自分をつくりあげた記憶をていねいに扱いたいから、記憶が自分をつくっていると信じているからだ。このたちの違いは、つまりは胸底の記憶の沼の大きさ、深さによるものじゃないのだろうか、というのがこのところの私の気づき。沼はある。深くて淀むことはあるにせよ。