過酷な夏だったと思う。度が過ぎて暑いのにも閉口したが、まるで拷問のように鳴り響く工事の音と揺れに悩まされ、自分をめぐる状況も決して良いとは言えないものがあった。9月になっても工事は続いているし、幾分和らいだものの暑い日は暑い。それでも日照時間の関係だろうか。燃え上がるような林の緑にも、少し黄色が目立ち始め、落ち葉や木の実が足元に落ちている。ユリの季節が足速に去ると、今まで何の気配もなかったところに曼珠沙華が急に茎を伸ばし、林の中や道端に真紅や乳白色の花を咲かせている。群れて咲いているのも壮観だが、やはり林の中の思いがけない樹の影などに、少しだけ身を寄せるように咲いているのを見るのが私には好ましい。
暑さはともかく工事の音や振動で家ではどうも何も考えることができず、仕方なく図書館や喫茶店を利用することになるのだが、こちらは冷房が寒く、体が冷え切ってしまい快適とは言い難い。暑くても林の中にベンチと机があれば、その方が気持ち良いくらいなのだが、これも蚊との攻防があり、なかなか上手くいかないものだと思う。
とにかく読みかけの本とノート、それから筆記用具を鞄に詰めて出かけ、書かなければならない原稿があるときは、それを書き、そうでなければノートに万年筆で抜き書きをしながら本を読んでいる。全部の本をそのように読むわけではないが、これはと思った箇所をノートに書き写すのが若い頃からの癖である。ただ黙読したり、気になった箇所にマーキングするだけでは、どうも心もない。読んだものが身になっている気がしないのだ。手を動かして、自分の体の動きとともに、頭だけではなく体全部を使って読む方が良いようである。書き続けていると手や腕が疲れるのはもちろん、筆圧が高い上に万年筆などの筆記用具が上手く持てない、指先で押さえるのではなく中指の第一関節あたりと人差し指の間でまるで握りしめるように書く、ので、手の甲の中指と薬指の間が痛んでくる。なんのことはない。この疲れや痛みとともに読むことによって、自分に刻みつけるように読んだ気がしているだけなのである。どこまで身になっているのか分かったものではない。
そのような読み方をしているにも関わらず、困ったことに自分の字を見るのが嫌いなのである。新しいノートに初めて文字を書き入れるのは苦痛でしかない。私の書き文字は、右肩が上がり、自分の歪んだ身体そのものを見せつけられているようだ。書き文字の歪みに対する嫌悪もそうだが、その文字と書かれる内容とノートの罫線と、行の頭の揃いのバラつき方や、万年筆の字の太さや、そのさまざまな細部がバラバラで、チグハグで、身体だけでなく自分の何もかもの歪みを見せられているようでたまらない。ワープロもパソコンも持っておらず原稿用紙の升目を一字一字埋めていた若い頃はもっと酷かったと思い出す。もう一字書くと嫌悪感が吹き上げてきて耐えられない。一字書いては破り、また一字書いては破り、挙句の果ては気分が悪くなってトイレで吐き続け、やがて身体と精神の方がくたくたになって諦めると、やっと書き続けることができるという有様だった。今は、そこまでではないにしても、やはりあの頃と同じ嫌悪感を我慢して書かなければノートは一ページ目から先に進んでくれはしない。歪みに目を瞑って書き続ける、するとやがて諦めがやってくる…。自分の作品を書いているのならばまだしも、自分ではない誰かが書いた文章をただ書き写しているだけなのだから厄介である。書いている内容が云々ということではなく、ただただ自分の書き文字を見たくないのだ。自分の心身のあり方を嫌悪しているとでもいうのだろうか。だからワープロで書き始めた時には、どこかで「助かった」と思ったものだ。とにかく書き文字を見ないですむ。見ないですむと同時に、キーボードを打つことによってモニターに現れる文字が、言葉が、自分とは関係の切れたものとして画面上に次々と実体化していくように思えたのだ。
喫茶店でノートに万年筆で抜き書きをしていると、すぐ横の席で女性がパソコンで文章を書いている。何を書いているのかは知らない。しかし、彼女はずいぶん強くキーボードを叩いている。その音がうるさいとか、そういうことではない。その強くキーボードを「打つ」その姿が、何かを「殴りつけている」ように見えたのである。キーボードを打つことが、文字通り「打つ」であり、「叩く」であり「殴る」ことであるのだとすれば、万年筆でノートに文字を書く私の行為は、ノートの表面を「引っ掻いて」、「傷をつける」ことであるのかもしれない。何かを「書く」ということは、このように「暴力的」なの行為なのだろう。
カフカは、タイプライターに反感を持ち、ノートに「尖ったペン」で作品を書いた。そして、自らの創作を称して「ペンで紙を引っ掻いたもの」と折に触れて言っていたという。もしカフカがタイプライターで作品を書いたなら、今わたしたちが読んでいるカフカの作品とは全く違ったものが書き上がったに違いない。同じく「暴力的な」もの出会っても、「殴る」ことと「引っ掻く」こととは違う。「引っ掻いて」できるのが、血が滲む、または切り裂かれた傷であるのに対して、「殴る」ことによってできるのは「痣」だろうか。何かで読んだことがあるが、恐ろしいことに痣などの外傷の証拠をほとんど残さずに、その内部を破壊し紙に至らしめるような殴り方があると言う。そのように書かれる「文」とは一体どのような「文」なのであろうか。これは比喩で言っているのではない。
私の目の前に、私が万年筆で「引っ掻いた」文字で埋め尽くされたノートが広がっている。
とにかく本を読んで琴線に触れた箇所を、次々に書き写していったものだ。何か自分の書くものに役立てようとして引っ掻いたというよりは、それがどんな役に立つのか全く検討もつかないまま、ただ日々引っ掻き続けたものだ。パラパラとめくっていると、書かれたものはその意味を離れ、ただ無数の傷が列を成して並んでいるようにしか見えない。
これは、私自身がそうであるようにやがて火に焚べられるものである。