息子とイーハンが隣の部屋でライヒの「四重奏曲」のピアノパートを合わせているのを何となしに聞きながら、なにか思い出すものがありました。なるほど、時としてライヒには、ケージの「四季」とか「6つのメロディー」の揺らぐ和音の手触りを、彷彿とさせる瞬間があるのでした。単に五度集積和音特有の響き、と言ってしまえばそれまでですが、ケージを耳にする時に心地良い、ヨーロッパの伝統を脱ぎ捨てた軽さであったり、脱ぎ捨てた衣の重さに驚いてみたり、黴臭い伝統から解放された、朝の空気のようにひんやりとした純粋な音の重なり合いが紡ぐ風の匂い、そんなことに思いを巡らせていると、ふと現在アメリカという国が、脱ぎ捨てようとしている衣は一体何なのか、それを脱ぎ捨てたアメリカは一体どんな姿をしているのか、思いがけず慄く自分に、ふと気が付いたりもするのです。
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9月某日 南馬込
西大井駅から新宿に抜け、京王線で仙川へ向かう。マンカの桐朋レッスン1日目。久保さんにはZappingの人為的偶発性を如何にして故意に発生させるかについて、和泉澤さんには身体性と楽音との繋ぎ方、具体的な記譜法について、出納さんにはスネア・ドラムの発音方法の様々な発音方法について、具体的な助言。マンカ「溶ける魚」リハーサル後、帰宅。ヴァイオリンの田中さんとは昨年のシャリーノのワークショップで、フルートの和泉澤さんは昨年の「競楽」で聴かせていただいて以来。とても丹念に楽譜が読み込んであって、感嘆する。
9月某日 南馬込
学生が用意してきたマンカ独奏曲をマンカ自身にレッスンしてもらう。譜面を主観的、観念的に解釈すると、リズムが甘いかも、と作曲者が注文を出す。優しい口調ながら、メトロノーム指示にも厳格であった。こう書くと、まるでソルフェージュ課題のように楽譜を読んでいるように聞こえるが、それは本来反対であって、ソルフェージュ課題は音楽的に咀嚼して演奏すべきものであり、彼らにとって「咀嚼する」という言葉は、演奏者の気まぐれとは全く相容れない観念なのだ。このように本来我々の文化体系にない視点を知ることは、楽譜を読む学生にとって有意義に違いない。
午後は作曲科の学生らに、楽器を使う意味、特性について質問を投げかけた。サックスであれば、グロウルやファズと使うことで、クラリネットとの差異が見えてくるかもしれない、という話。鳥井さんに連れていってもらい、何十年かぶりに「なみはな」で昼食を摂る。マンカはイワシ丼、こちらは煮魚定食。彼女がピッツェッティとダンヌンツィオの研究をしていると聞いて、おどろく。ピッツェッティなど、イタリアではほとんど顧みられる機会もなく、おそらく、寧ろ海外の研究者の研究対象となっているのかもしれない。
一度馬込に戻ってシャワーを浴び、大森まで自転車で走って桜木町へむかう。SさんとMさんと桜木町「うまや」にて会食。Sさんはすっかり大学の教員生活を謳歌しているように見える。以前から、本来Sさんはインプットの人ではなく、アウトプットの人だと思っていたので嬉しい。
9月某日 南馬込
雲一つない絶好の日和。朝8時過ぎに家を出て、増上寺まで湯浅先生をたずねる。西馬込から大門まで地下鉄一本で行けるのは有難い。東京タワーの足元で、端正な墓地が心地よさそうに朝日を受けている。フェルマータが彫られた湯浅先生の墓石は地面にそっと寝かされていて、謙虚な佇まいが湯浅先生らしく、どことなくヨーロッパ風の雰囲気も漂う。てっきり手軽に仏花が手に入ると思い込んで、線香しか携えていかなかったが、結局花屋が見つからずお線香だけで失礼した。増上寺は広く知られているけれども、墓参に訪れる人は決して多くはないのだろう。
午前中はマンカのピアノ作品リハーサル2つ。マンカの楽譜を読む姿勢が、次第に学生らに伝わってきたのが解る。マンカも、皆揃ってとても反応が早いと大喜びしている。リハーサル後、慌てて仙川駅前で蕎麦をかけこみ、二人で渋谷へ向かった。彼が恵比寿に出かけると言うので、井の頭線出口から山手線入口まで連れて行く。山手線がJRだとわかっていれば問題はないが、連絡通路の表示には「山手線」とは書いてないので、一人ではなかなか山手線ホームにたどり着けない、と慌てている。
それからこちらは池尻までバスにのり、「考」リハーサルに出かける。佐藤敏直作品で、2楽章も3楽章も、予定調和的な音楽の流れに甘んじずに、少し挑戦的な姿勢に変えてみたのは、今までの経験で皆さんの技量を信頼しているからだ。
リハーサル後タクシーで三軒茶屋に廻り、マンションに置きっぱなしだった自転車を店に引っ張っていき鍵を壊してもらう。ついでにタイヤに空気を入れ、機械油を差して貰って、自転車で馬込に戻る。
9月某日 南馬込
今日は台風接近で交通も乱れて一日中大変だったが、桐朋でマンカ・ワークショップの演奏会があった。作品解説がマンカから朝6時に送られてきたので、リハーサルの合間に控室にコンピュータを持ち込み、まるで居残り勉強よろしく翻訳しなければならなかったのはさておき、ほんの一週間足らずのワークショップだったけれど、学生の目はどれもとても輝いていて、とても美しいと思った。作曲の皆さんが、レッスンの後そろって学生ホールで作曲に勤しんでいる姿は微笑ましく、翌日披露してくれた内容の驚くべき充実ぶりには、若さのもつエネルギーの素晴らしさと相俟って、文字通り舌を巻く思いであった。今回作曲の学生が演奏に多く参加していたのも、作曲に対する姿勢を実感できる、すばらしく有益な機会だったに違いない。こう言い切ってしまうのもどうかとは思うが、ヨーロッパ人にとって音符は記号であって符号であり、それらを組み合わせることによって、作曲者は具体的なメッセージ、意図を聴き手に伝えてきた。それが正しいかどうかではなく、彼らにとっての音符、譜面の意味について、日本に生まれた若い彼らが沢山思考を巡らせて、それを書きつける音符であったり、楽器を通して音として、勇気をもって言表化した意味は途轍もなく大きい。そして、彼らに対して、かかる肯定的刺激を与え続けたマンカの言葉の一つ一つに、深く心を動かされた一週間であった。
9月某日 南馬込
午前中は、亀戸天神の脇の旧家、ライティングハウスで、Rikkiと神田さんと家人のライブを聴く。沖縄と奄美の島唄はまるで違う、と話には聞いていたが、開放感よりむしろ、絹糸のような繊細な響きであたりが温かく包み込まれる心地がするのは、おそらく彼女の声質だけではないのかもしれない。日本と琉球に翻弄されつつも、しなやかに、したたかに連綿と受け継がれてきた声に、思わず鳥肌が立つ。
そのまま新宿へ向かい、発車寸前のロマンスカーに飛び乗ることができた。10号車に乗ったと電話で伝え、町田で無事に母が合流する。母は決まって、少女時代に住んでいた松田の酒匂川の鉄橋あたりを電車が通るとき、富士山の姿を仰げないかとしきりに気にするのだが、昨日までの台風の影響なのだろう、今回は富士山だけ厚い雲がちょうど帽子のように被っていて、残念であった。
駅の立喰いそばで昼食を摂り久野霊園へ墓参してから、いつものように湯河原、茅ケ崎、堀ノ内と回った。茅ケ崎の西運寺では、待たせているタクシーに慌てて戻ろうとすると、いつもお墓を守っている本堂にも手を合わせてあげてください、と諭されて、おもわず頭を掻く。
19時に堀ノ内に着くころには陽もとっぷり暮れ、真っ暗になってしまい、秋の訪れを実感する。暗がりに墓参などするものではないのは百も承知だが、普段日本にいないのでは仕方がない。墓地への入口が閉められていた信誠寺に併設している「ぎんなん幼稚園」の関係者がちょうど戻ってきたので、墓参したいと伝えると、快く駐車場を開けてくれた。あまりのタイミングの良さに、やっぱり祖母は母が訪れるのを心待ちにしていたに違いないと思う。東神奈川で母が横浜線に乗ったのを見届けてから、大森へ帰宅。慣れてくると、馬込はずいぶん便利な場所だとわかる。
9月某日 ミラノ自宅
ちょうど朝方、家人がミラノに着いたので、昼前には揃って息子の演奏を聴きにでかける。一年前と比べて別人のように成長した、と驚くのは単なる親の贔屓目だろうが、20歳前後は、誰でも海綿のように吸収力に富んでいる時期なのかもしれない。今のうちに出来るだけ豊かな人生経験を積んでほしいと思うのは、表現する楽しさ、愉悦が感じられて、息子なりに何か掴んだように見えたからだ。イスラエルがカタール空爆。イスラエル首相は「パレスチナ国家は存在させない」との見解を繰り返している。今回の空爆はハマス幹部を標的にしたが失敗したという。イスラエル空軍がカタール領域外からミサイル発射との報道。
9月某日 ミラノ自宅
もうすぐ室内楽の試験があるからと息子がライヒの「四重奏曲」を練習している。ストイックに数ばかり数えているので、時々リストの「結婚」を派手に弾いては、ストレスを発散しているようだ。ピアニストにとって、やはりリストはスポーティーな作曲家なのだろう。
イスラエルの指揮者ラハフ・シャニとミュンヘンフィルとの公演をベルギーのフランダース音楽祭が中止発表。シャニのイスラエル政府に対する見解が明瞭ではない、とのこと。何が正しいのか自分にはわからないが、毎日少しずつ我々自身の表情が硬化してゆくのを感じる。それぞれの放つ言葉から優しさや心遣いが失われてゆき、初めはほんの僅かの血を出す程度の刺し傷を穿った棘が、気が付けば傷口から赤い肉が覗き、理性と言葉が少しずつ乖離して、攻撃的で目を引く単語ばかり跋扈するようになる。あたかも何気ない言葉が何時しか恐ろしい巨人へと変貌を遂げるように。
9月某日 ミラノ自宅
アフガニスタンの地震では2000人もの命が失われたとの報道もあり、宗教的理由から男性救助要員は女性に触れることができないともいう。少なくともイラン製9機のロシア軍無人機が19回に亙りポーランド領空を侵犯。ポーランド軍機とともにオランダ軍機、イタリア軍機も参加し3機を撃墜。ポーランドはNATO第4条発動、緊急会合を要請。同国東部航空制限発表。ネタニヤフ首相、ヨルダン川西岸入植計画に署名。
9月某日 ミラノ自宅
イスラエル出身の妙齢が受験に訪れた。同僚が「戦争の間、イタリアでヴァカンスを過ごしたいの」と揶揄うと、困惑しながら「兵役はこなして来ました」とおずおず説明した。「わたしの父は10月7日あの近くにおりまして、巻き込まれてしまいました。幸い命は無事でした。ですが、家族はイスラエルに残っていて、わたしだけが国を出てきました。イタリアでボーイフレンドが出来たので、ここに残ることを決めました」、とこわばった表情のまま話した。「では、国に帰らないための口実作りで指揮を受けにきたの」と同僚が口を開くと、ますます困った顔になったので、さすがに居たたまれなくなって「ところで君は何の課題曲をもってきたの」と口を挟んだ。
バーリからやってきた別の受験生は、母がアルバニア人、父がイタリア人で、彼の母親は、経済が破綻したアルバニアから1991年8月7日貨物船Vloraでイタリアに亡命した、2万人ものアルバニア難民の一人であった。鈴なりの難民が乗り込んだ貨物船のなかで、アルバニア人船長は、殺気立った同じアルバニア人の難民らによって力づくでイタリアに出航させられた、いわゆるヴロラ号事件だ。ヴロラ号はブリンディシへの入港を拒否された後、7時間もの航行を続けた後にバーリに接岸した。一時的に競技場に収容された膨大な数の難民は、その後アルバニアに強制送還されたり、見逃されてイタリアに残ったりと、さまざまな人生が待ち受けていたと読んだことがある。彼の母親も気が付いた時には海に投げ出されていて、なぜ生き延びられたかわからないと言っていたそうだ。
9月某日 ロッポロ民宿
一昨年、昨年に続き、ロッポロ城でマスターコースに出かけ、夕食時、サンレモのオーケストラでコントラバス首席をやっているトンマーゾと話す。彼の周りの音楽家仲間の間ではロシアに対する姿勢は一枚岩ではないという。ロシアの侵攻を批難する者もいれば、北大西洋条約機構が先に一線を越えた、と考える向きもあるという。同じオーケストラで弾いているウクライナ出身のZは、官庁の手違いで、引っ越した際ウクライナ国内の住民票が消失してしまい、幸運にも召集令状が届かずに済んでいるらしい。
イスラエルに対しては、ほぼ誰もが否定的な意見を口にしていると言う。イスラエルは一線を越えてしまった、というわけだ。確かに、ドイツとイタリアは第二次世界大戦の過去があるから口に出せないが、ヨーロッパ全体としてのイスラエルへの態度は、現在ほぼ決定的になりつつある。少なくともトンマーゾはそう信じているようであった。
9月某日 ロッポロ民宿
オーケストラ練習が終わってから、生徒たちに「地下鉄でスリに遭って犯人を大声で蹂躙するつもりで」、こちらに向かって大声で怒鳴らせてみる。身体の裡で捏ねた感情の鉄球を手に取って、躊躇せず犯人の顔めがけて投げつける感じだ。単に大声を上げるだけでは、相手にはこちらの感情は何も届かない。
目の前の相手に向かって感情をぶつけることに対して、単にぶつける振りをするだけであっても、初めは誰しもが当惑する。躊躇ったり、思わず顔から少し逸らしてしまったり、力がなくて相手まで届かなかったり、球の形が歪だったり、柔らかすぎたりして、うまく投げつけられない。客観的にみれば、単に大声を上げているだけだが、実際は大声に載せた感情の塊を、球体にして投げているのである。感情を身体の外に放射させて、それが相手に当たってぐしゃりと音がするのを実感できる意識。それが、演奏者に自分のイメージを投げかける姿勢と重なるわけだ。ジュゼッペやシモーネのように、「こうすればよいのですね」と客観的に状況を分析する生徒に対しては、根本的に姿勢が逆だと指摘する。「こうすれば、こうなる」という態度ではなく、「君自身がその状況を作り出す原動力にならなければいけない」と促すのである。
ところで今日、アリーチェ・カステッロの城址食堂で、皆と昼食を摂っているとき、そこにいた一人がノヴァーラの「レオナルド」工場で戦闘機を作っている、と話が盛り上がった。
「レオナルド」と言えば、イタリアを代表する軍需企業だから、名前くらいは知っている。戦闘機の重力加速度は9Gにもなるから、歯の詰め物など簡単に飛びだして危険だ、程度の話をしているうちは良かったが、「うちの会社は、最近日本とイギリスと共同開発に乗り出していて」、日本はNATOのパートナーだからね、と話題は広がっていく。それどころか、「日本の仮想敵国はどこだっけ」と目の前に二人中国人の留学生が並んでいる前でしつこく尋ねるのに閉口した。
単なる無神経なのか、敢えて尋ねているのか判然としなかったが、恐らく彼らには会話の内容は理解できなかったのが救いであった。各地の戦争が激しくなり、「レオナルド」も忙しくなったか尋ねると、彼の働く工場で作っている戦闘機は、幸運にも世界のどの諍いにも関わっていないので、特に忙しくなるわけでもなく、粛々と以前同様仕事を続けているのだそうだ。
一種類の戦闘機を作るだけで、驚くほど広い空間が必要なので、別の種類の戦闘機を彼が担当する予定は今のところはないという。
9月某日 ロッポロ民宿
メンデルスゾーンのソリストを務めるレティーツィア・グッリーニは、息子が7月シオンで知り合ったイタリア人学生の一人で、一緒に寿司を食べに行ったというから、世界は狭いものだ。彼女はカプリッチョーソ(気まぐれ)でジプシー調な感じを見事に活かした、素晴らしい演奏を披露した。この春にはトリノ国立音楽院から派遣されて、東京イタリア文化会館でリサイタルをしたと聞いた。その際、ディロンとも知り合って、芸大でレッスンも受けた、と大層日本が気に入ったようである。
ロシア・ミグ戦闘機エストニア侵犯し、北大西洋条約機構が対応。伊戦闘機も参加。朝、ベルティニャーニ湖まで歩き、人気のない小さな湖を一周した。森から落ちて来る栗が道に沢山転がっていたので、「いが」を蹴りながら歩く。
日本では熊出没がしばしば報じられているけれど、この辺りはどうかしら、とふと怖くなる。
9月某日 ミラノ自宅
ロッポロのマスターコースの修了演奏会は、参加それぞれとても良かったが、練習時に殻に閉じこもって何も出来なかったシャンシャンが、本番では見違えるように大胆で雄弁に振っている姿には、思わず感動した。
イギリス、カナダ、オーストラリア、ポルトガルが、パレスチナの国家承認を表明。日本政府は今回パレスチナ国家承認を見送ると発表、イスラエル政府より謝意を受ける。
イスラエルの指揮者イラン・ヴォルコフが、ガザ支援のデモに参加し、拘束されたとの報道。現在のイスラエルにおいては、バレンボイムが表明してきたような勇気ある行動は、悉く芽を摘まれてしまうのか。
昨日の夜から今日の夜半まで、イタリアはゼネラル・ストライキが続いている。パレスチナの国家承認を見送ったメローニ政権への抗議のため、国鉄、私鉄、各都市のバス、地下鉄、学校、大学、出版社などが24時間のストライキに突入し、各都市では大規模なパレスチナ支援のデモ行進が行われた。ミラノでは、名門高校マンゾーニを学生が占拠しパレスチナ承認を強く求め、スカラ座で催されていたロベルト・ボッレのバレエ・プログラムは、公演後ボッレらがパレスチナ旗を舞台上で掲げて、パレスチナへの支持を強く表明し、伊政府が、ドイツや日本と同じく手を拱いて傍観を決め込んでいることに抗議した。第二次世界大戦中のユダヤ人に対しての蛮行が尾を曳いているのと、メローニの保守的な姿勢が相俟っているのだろう。大戦敗戦の際、イタリアはイタリア軍を放棄し平和主義をつまびらかにし、再軍備に関しても当時は強く制限されたのは日本と同じだが、地政学的にもNATO軍参加が必須であったため、戦後イタリア軍は日本と違ってすみやかに再編成された。イタリアのテレビでは、同じ敗戦国として平和主義を掲げた日本は、未だに正式な軍隊を持っていない、活動も制限されている、と紹介されていた。イスラエルはヒズボラを口実にレバノンを大規模空爆した。
9月某日 ミラノ自宅
リナーテ空港近くの分校まで学校の再試験に出かけると、以前楽典などを教えたエリエールが、シルバのレッスンに訪れていた。イスラエル人のエリエールは、スカラのバレエ学校を卒業し、同時に音楽の研鑽も続けている。彼女の笑顔を見ながら、昨日のゼネストで、ミラノ中央駅で起きた暴動を思い出して複雑な思いに駆られる。ミラノ、ローマ、トリノを始め、イタリア各地でそれぞれ5万人、数万人規模のパレスチナ支援のデモ行進が平和裏に行われた一方、それを口実に暴力をひけらかす若者もいて、世界にはその部分だけがセンセーショナルに切り抜かれて報道された。パレスチナ支援を求めるため、なぜ中央駅の店舗を壊したいのか全く理解できないが、恐らく深い意味などないのかもしれない。
エリエールや、先日入試にやってきたイスラエルの妙齢は、ミラノの大通りを埋め尽くす無数の人々が、まるで河のように揺らめきながら、パレスチナ解放と反ネタニヤフ、場合によっては反シオニズムを叫びながら練り歩く姿をどんな思いで見つめていたのだろう。自分がその立場だったらと思うと、想像できないほどの恐怖かとも思うが、或いは間違っているかもしれない。イスラエル人とパレスチナ人が平和に共存できる世界は、もう実現できないのだろうか。アメリカがイスラエルを支援すればするほど、膨らむ大義名分を手にしたロシアは、攻撃を広げてゆく。
フランス・マクロン大統領は国連総会で「Le temps de la paix est venu.平和のための時が来た」、とパレスチナの国家承認を表明。同時に、ベルギー、ルクセンブルク、マルタ、サンマリノ、アンドラのパレスチナ国家承認を発表。
コペンハーゲン、オスロ―の空港に不明のドローン飛来のため、空港が一時閉鎖。
9月某日 ミラノ自宅
夕刻、パレストロの市立プラネタリウムで息子がピアノを弾くと言うので聴きに出かける。酷い雷雨で、長靴に雨具上下という重装備。
古めかしさと厳めしさが、いかにもファシズム建築期らしい、美しい市立プラネタリウムは、1930年にミラノの出版者ウルリコ・オェプリがパトロンとなり、名建築家ピエロ・ポルタルッピが設計した傑作の一つだ。動物の星座が43、物の形をした星座が29、男の姿をした星座が12、女の姿をした星座は4。併せて88の星座はピアノの鍵盤の数と同じ、解説員の話は始まり、1時間ほどかけて、太陽の話から土星、北斗七星、北極星、アンドロメダ星雲など、秋の星座の話を、夕方、深夜、明け方と時系列で説明する。そんな逸話の合間に、息子がベートーヴェンの「狩」やウェーバーを弾いたのだが、特に何も考えずに出かけたものの、星座の話の合間にこれらの作品が演奏されるのは、思いの外似合っていて、意外なほど心地よかった。
9月某日 ミラノ自宅
岡部美紀さんに教えてもらって、ファッション・デザイナー、マリア・カルデラーラと廣瀬智央の共同作品展「天の川」を訪ねる。30メートル強の藍の布に、廣瀬さんは無数の小さな点を書き連ね、空間を織るようにして見事に天の川を表現していた。
「お互い長くイタリアにいるせいかもしれませんが、日本文化に対する姿勢や、西洋、イタリア文化に対しての姿勢など、多く共感できる部分もあり楽しかった」と美紀さんに報告すると、「分野は異なれど、あなたと廣瀬さんは色々共通点があると思っていた」とお返事を頂く。作品における地政学的アプローチであったり、環境への関心など、表現を自分の裡に溜め込まないところに近しさを感じる。驚いたのは、廣瀬さんは、イントナルモーリのあるヴィニョーリ通り、歩いて5、6分程度しかかからない、すぐ近所に長年住んでいらしたことだ。毎日出歩いているのに、お目にかかったことがなかった。
9月某日 ミラノ自宅
先日のゼネラル・ストライキの影響なのか、メローニ首相はハマスが排除されればパレスチナ国家承認、と一歩踏み込んだ発言をした。イタリアの大手新聞は、ヴェネチアのフェニーチェ劇場がストライキ、と報じている。発表された新音楽監督が政権に近い若い女性指揮者で、彼女は一度も劇場を振ったことがなく、事前の相談もなく、到底受け容れられない、とオーケストラなど劇場関係者が反旗を翻したという。尤も関係者の間では、前劇場支配人だったオルトンビーナ氏がスカラに送られた辺りから、彼女の名前はほぼ確実だと言われていたので、ここに来て大問題のように報じられるのに、違和感すら感じている。
息子は4年間通ったミラノ日本人学校の創立50周年記念式典に招かれて、ピアノを弾いてきたらしい。手作りの素敵なアルバムを受取って嬉しそうに帰宅。
9月某日 ミラノ自宅
イスラエル首相は国連総会参加にあたり、パレスチナを国家承認していないギリシャとイタリアの領土上空を通過してアメリカへ向かった。国際刑事裁判所の逮捕状を危惧との報道もあるが、ともかくフランス、スペイン上空を飛ぶのを完全に避けたという。パレスチナ暫定政府のアッバス議長の米国入国は許可されなかった。
ゼレンスキー大統領は、92機のドローンがロシアからポーランドへ向かい、そのうち19機がポーランド領空侵犯に成功したと発表した。今後は、ロシアからイタリア方面へドローンが向かう可能性を示唆。デンマークの最大軍事基地上空にて不明のドローン発見。
9月某日 ミラノ自宅
パレスチナ支援グループが、ネルヴィアーノの軍需会社「レオナルド」入口を封鎖。「レオナルド」がイスラエルに武器を輸出するのに抗議している。
息子曰く、先の大戦で過ちを冒したイタリアやドイツこそ、率先して自分たちと間違いを繰り返すな、とイスラエルに言うべきだし、言える立場にあるはずなのに、どうしてメローニもメルツも弱腰なのか、腑に落ちないらしい。
正論ではあるけれど、それを軽はずみに口に出来ぬほどの蛮行を冒してしまった、とも言える。
家人は、空港から直接藤井一興先生のお別れの会場へ直行した。「花の敷付き詰められた立派な祭壇の上に悠治さんと藤井先生が並んで微笑んでいる写真も紹介された。それから、三原さんが芸大の大学院に入学した」、と嬉しそうに電話がかかってきた。三原さんは藤井先生にも習っていたはずだ。「息子にもすぐ伝えて」と電話の向こうの声が弾んでいる。三原さんと言えば、以前彼女と息子が同じノヴァラの音楽院に通っていた頃、まだ小さかった息子をいつも電車で連れて行ってくれて、よい話し相手になって貰った。だから、彼女のことを想い浮かべると、幼かった息子と並んで、中央駅の喫茶店でこちらが迎えにいくのを待っている姿が自然と蘇ってくる。常にひたむきで、純粋に音楽と向き合う姿が印象的だった。
インターネットの署名サイトから、ヴェネツィアの劇場新音楽監督に反対する、署名要望メールが届く。恐らく自動的にメーリングリストに載っているに違いないが、今回の署名には参加する気はない。実際に見たこともないので、周りがどう吹聴していようが、知りもしない人に対して、自分が何もいう権利はないだろう。
尤も、彼女を否定しているのは音楽関係者や劇場のファンに限られているのだろうから、大多数は、嫉妬深く因襲的なわれわれの石頭を嘲笑の対象にしているのかも知れない。
以前国際コンクールの審査をした際、同じく審査を担当していた女流作曲家が、「男女の参加者が同点の場合、女性の作曲家にチャンスを与えてくれ」とはっきり言っていたのを思い出す。「何故なら、女性というだけで、わたしたちはずっと可能性を剥奪され続けてきたから」、と畳みかけられ、思わず言葉に窮してしまった。
当初自分は、音楽をする環境は他の職種より男女差が少ない、と信じて疑わなかったが、彼女にとってはそうではなかった。この目で見ている世界など、現実のほんの欠片に過ぎないのを実感したのだ。
「ジェンダー格差」、「人種差別」、「社会の階級」、「戦争」など、ぽっかり浮かぶ小さな島それぞれに高らかにプラカードが掲げられているのならば、音楽はその島の周囲を満たす海であるべきか。辛抱強く波を穿ち続けて岩を砕き、浜を消失させ、出来るものなら憎悪そのものを水中に沈めてしまうために。
(9月30日 ミラノにて)