野の装い

笠間直穂子

 暖かい季節に、庭に出て、草木や野菜の様子を見てまわるとき、たとえ暑くても、虫さされや直射日光を避けるため、素肌を晒さないようにする。これは田畑や野山に出入りするひとにとって、ごく当たり前のことだが、わたしのように、主に室内で仕事をしていて、少しの時間だけ外に出る生活だと、そのたびに長袖に着替えるのは億劫に感じてしまう。それで、Tシャツの上に長袖シャツなどを羽織るわけだけれど、そうすると腕まわりや裾がもたつく上、動いているうちに背中や首元の肌が露出し、かといって土をさわっている最中は直すこともできず、たちまち蚊に刺される。

 去年、ジャンプスーツを買おう、と決めた。一着で全身をおおう、綿帆布でできた、いわゆるツナギだ。決めたのはそのときだが、突然思いついたことではない。庭のある家に引っ越してくるよりもずっと前から、着てみたいと思っていた。

 数年前まで、十九世紀フランスの諷刺新聞を読む小さな研究会に出席するため、いまは亡くなったM先生の、東京西郊の私鉄沿線にある自宅へ、二か月に一度ほど通っていた。あるとき、早めに駅に着いたので、近くにある美術大学のキャンパスを覗いてみることにした。構内に売店を見つけて入ると、ツナギが並んでいる。黒や青に加えて、ピンクや紫といった目立つ色のものもあって、楽しい。そういえば、友人知人に連れられて、いくつかの美術大学を訪れたことがあるけれど、学内で思い思いの色のツナギを着て制作する学生たちを見かけた気がする。いいな、と思った。

 だから、夏の庭仕事に、ツナギを着ようと思ったとき、わたしは作業服の専門店ではなく、画材屋に行った。鮮やかな色のものは、ちょうど廃番になったらしく、あまり残っていなかったけれど、素材とデザインはあのときに見たのと変わらない。青と、灰色を買った。嬉しかった。

 着てみると、思った以上に快適だ。家のなかでは綿パンツのように穿いて両袖を腰のところで結んでおく。家事や事務作業がひと段落して、バラの花柄を摘まなくては、とか、ミニトマトを収穫しよう、などと思いたったら、袖を通す。上着を取りに行く手間もなく、すぐに出られる。上半身と下半身が一体になっているから、すっきりと動きやすく、いくら動いても、よれたりめくれたりしないし、生地に厚みがあるので、汗で肌に貼りつくこともない。それに、胴まわりが締めつけられず、腹部に空気が通るため、ベルトの位置で留める服よりも、涼しく感じる。作業服として優秀であることがよくわかった。

 美術作品制作の作業着としてのジャンプスーツが頭に残っていたのは、芸術専攻の学生たちが一翼を担ったニュー・ウェイヴ周辺の音楽文化を連想したせいでもあっただろう。ジャンプスーツが似合う、または、似合いそうな、ミュージシャンたち。そういえば、わたしが高校時代にはじめてトーキング・ヘッズを聴いたのは、美術部の先輩が貸してくれたデビューアルバムのカセットテープだった。

 つまり、わたしは、実用面での利点以前に、単純に、かっこいい、と思って、ジャンプスーツを着ることにした。これは、肝心なことだと思う。便利だからやむをえず、ではなく、装いの一種として、着たいから着ている。そう思えるものを身につければ、自然と体は動く。

     *

 働くことと装うことの関係、といえば、小野塚秋良の仕事が思い出される。一貫して労働着を活動の基本に置いてきた、稀有な服飾デザイナーだ。三宅一生に附いてパリコレクションに来ていたころから、現地の有名ブティックのショーウィンドウに飾られた服よりも、そのウィンドウを拭く清掃員の作業着に目が行く。こちらのほうがかっこいい、と感じる気持ちを軸に、自分のスタイルを練りあげていった。

 一九八八年に自身のブランド、ズッカをはじめた六年後には、当の作業着をつくるボルドーの工場に掛け合い、その工場で生産する日常着のシリーズ、ズッカ・トラバイユを立ちあげる。労賃の安い国外へ生産拠点が移されていった時代のフランス国内の縫製工場、それも恰好悪いと見なされて着られなくなりつつあった労働着のメーカーの経営状況を考えるなら、彼の提案は、そこで働く労働者の雇用維持にもつながったものと想像できる。

 他方、彼はズッカと平行して、飲食店などの従業員が着用するユニフォームのブランド、ハクイのデザインに携わり、前者を退いたいまも、後者の仕事はつづけている。毎年、十型ほどの新作を発表するが、ユニフォームは同じものをいつでも補充できることが肝要だから、過去の製品も在庫を残し、早く売り切ることはしない。毎シーズンのコレクションに追われ、その場かぎりの服を大量につくりつづける一般的なアパレル業界とは対照的なシステムだ。

 こうして彼は、単に労働着のデザインを形だけ採り入れる、というのではなく、労働の現場に直結する服づくりを実践してきた。その実践は、そのまま、ファッション業界に対する批判ともなる。

 二十年以上前になるだろうか、どこで読んだのか思い出せないのだけれど、ズッカを率いていた当時の彼が、中央アジアへの旅行について語っていた。きらびやかな世界になじまない自分がファッションの仕事をしていることに悩み、気分を変えようと広大な草原を訪れたとき、遊牧民の女性がたっぷりした衣装と重たげな装飾品を身にまとって、目いっぱい力仕事をするのを見て、そうだ、これでいいんだと思った、それで視界が開けた、というような話だった。

 これを読んだわたしは、身なりに気を遣うことと、汗水垂らして働くことは、どちらかというと相容れない、といった思いなしが、自分にもある、と気づいた。どうせ汚すなら、きれいにしても仕方がない、というような。でも考えてみれば、彼の言うとおり、世界各地の衣装には、色鮮やかだったり、たくさんの布地や飾りを重ねたりするものがいくらもあって、そういう装いで体を動かす人々の映像を、わたし自身、あちこちで見た記憶がある。そのような衣装が、習慣やしきたりにしたがっただけものであって、流行や個性は関係ない、と決めつけるのは、偏見にすぎないだろう。美しさの基準や、華美の程度に違いはあれど、ひとはおしゃれをして、力をふるう。

 なにも遠い地域のことにかぎらない。乗馬ズボン姿がびしりと決まった鳶職に出会うことがあるけれども、そのズボンは無論、機能性のみによってそういうデザインになっているわけではない。ニッカーボッカーが日本で土木工事の作業着となるにいたった服飾史と、装うことをめぐる着用者の個人史が、その「着こなし」に現れる。

 極限の力仕事である炭鉱での採炭労働に従事する女性たちもまた、着飾った。森崎和江が『まっくら』で話を聞く元女抗夫の一人は、戦前、若い娘は休日に髪結いに行って日本髪を結い、髪が汚れるのもかまわず鬢も前髪も出して「上だけちょこんとタオルをかむります。しゃれとったのです」と言う。別の一人も、若い女は後ろをちょっと長くした短い腰巻きを穿き、「坑内へ入るのにおしゃれして、紅化粧して手拭いかぶって」、赤や青の玉のついたかんざしに、絣の上からきりりと巻いた白い晒、近所の農婦たちに見世物みたいだと揶揄されるほど「いきな恰好して行きよった」と語る。とはいえ、坑内では暑いので脱ぎ、「まっくろになってかえりは着物かたげてすたすたかえる。腰巻きも暑いいうてタオルをくるっとまいたなりの女もいたりしてね」。

 読み返していて気づくのだが、本書では、語り手の一人ならずが、働かない今日の女性を批判するのに、着飾ってばかりいて、という言い方をする。先に引いた女性などは、「いまの女性」について「虚栄はることにばかり負けん気出して紅化粧しての」と評しておいて、その少しあとに、自分たちが「紅化粧して」坑内へおりたことを誇りをもって話す。化粧ばかりして仕事をしないこと、の反対は、化粧せずに仕事をすること、ではないのだ。

 装うことは、働かないことの象徴にもなり、働くための勢いづけにもなる。社会秩序への隷従にもなれば、ぎりぎりの自由の表現にもなる。階級間の断絶も示せば、連続性も示す……。労働との関係を通じて、装いというものの、容易には解き明かせない複雑な意味合いが、ぼんやりと浮かびあがってくるようだ。

     *

 秩父鉄道を皆野駅で降りて歩いていると、小さな書店があった。入ってみると、雑誌が中心で、店主はわたしとそう変わらない年ごろのようだが、棚を眺めるうちに、先代が八〇年代に仕入れたとおぼしい単行本の並ぶ一画に目が留まった。四十年前の秩父の本屋が、忽然と目の前に現れたかのようだ。埼玉の民話集、一揆に関する歴史の研究書、などに交ざって差してあった、井上光三郎『機織唄の女たち 聞き書き秩父銘仙史』を手に取る。すでにもっている『写真集 秩父機織唄』の著者だが、この本ははじめて見た。東書選書、一九八〇年刊。とうに絶版の本を、新刊として定価で買い、帰りの電車でひらく。じきに引きこまれて、家へ帰ってからも読みふけった。

 明治の終わりごろから戦前にかけて絹織物の一大産地であった秩父に一九二五年に生まれ、自らも機屋で働いたことのある著者が、かつて機織りにいそしんだ老女たちを訪ね歩き、彼女たちの語りに、作業中歌われた機織唄の数々、機屋の証文や出納帳のような史料、業界の盛衰を示すデータ、著者の撮影した写真などを織り交ぜて、当時の機織女たちの生活を陰影豊かに描き出す。

 秩父では江戸時代から、農家で機織りがおこなわれ、自家用の布を織ったり、機屋の委託を受けて売り物を織ったりしていた。高機(たかはた)の発明を機に近代的な織物生産がはじまると、機屋は農家への委託生産と平行して、工場に住みこむ年季奉公の機織女として農家の子女を雇うようになる。このころの秩父の銘仙は、主に縞模様の丈夫な普段着、「秩父鬼太織(おにぶとり)」で、今日知られる華やかな柄のほぐし銘仙が大流行するのは、昭和に入ってからだ。

 家で働いた女性と、工場に住みこんで働いた女性がいるわけだが、両者を截然と分けられるわけではない。元々実家で機織りをしていて、その後工場へ行った者もいるし、機を織る家に嫁いでからはじめて姑に習って覚えた者もいる。機織りよりも糸引きが盛んな村では、農家から近くの共同製糸場へ住みこむ。女性たちの多様な境涯を通して、秩父地方の織物産業の輪郭が見えてくると同時に、ひとくくりにはできない機織りの女たち一人ひとりの肖像が、読む者の胸に残る。

 秩父地域内はもちろん、群馬や、ときには新潟からも、娘たちはやってきた。貧しい農家が口減らしとして子供を年季奉公へ出すのは予想されるとおりだが、農家に残った娘たちが、町の暮らしに憧れ、親の反対も聞かずに家を飛び出して女工になる例も多かったという。「年季に出た娘が、たまにけえってくるときゃ銘仙の着物や羽織だしさぁ。頭はワッカに結って丈長(たけなが)なんどつけたり、銀出油(ぎんだし)の匂いはプンプンするし、うらやましくって見ねぇようにしたもんだったいねぇ」(浅見アイノ)。その恰好は、物日(祝い事や祭りなどのある日)ならではの盛装なのだが、いつでも木綿の着物に藁草履の百姓の子の目には眩しい。親に急きたてられて家事と農作業に日々を送るなか、「息がつまるような毎日なんで、手に職つけてひとりだちがしたくって、はあ我慢ができなくって親の止めるんをふりきって飛び出してきちまったつぅわけです」(柿境ミヤ)。

 無論、来てみれば労働は過酷をきわめる。場合によっては十歳に満たないうちから、寝る間もなく働かねばならない。要領が悪ければ旦那に叱られ、逆に引き立てられれば仲間に妬まれる。夜中に逃げ出し、工場側の追っ手につかまって、その後病欠を繰り返すさまが逐一記録された、ある年季女工の「職工契約金・貸附金其他台帳」が生々しい。他方、脱落を免れて、必死に仕事を身につければ、だんだんと一人前の織り手になっていく。

 農村でも町でも、娘たちはいずれ、周囲に世話されて嫁ぐ。夫が酒飲みで働かない、あるいは働いても家に金を入れない、という話が、実に多い。女たちは相変わらず仕事に忙殺されながら、義父母に仕え、子を産み育てる。十一人産んで「四人はだめだったが七人だけはにん(成人)にしましたねぇ」(島田クマ)というひともいれば、若くして死んだわが子のことを切々と語るひともいる。柿境ミヤの娘チエコは、十六歳のとき、機織りの失敗を旦那に咎められ、線路に飛びこんで死んだ。井上イセの娘タケ乃は、高等小学校まで出たいと望んだが叶えられず、代わりに通った裁縫教室で抜群の才能を示し、ぜひにと請われて町の商家へ嫁いだものの、「野育ちなんで町の水に合なかったんだんべぇ。間もなく子を残して死んでしまったんさぁ」。

 「尋常もろくろく出ず、糸ひきと機織りに明け暮れた明治生まれの秩父の女たちは、どこへいっても、いつも寒く心細かったに違いない」——自らの母の面影をも重ねつつ、多くの老女を訪ね歩いた著者は哀惜をこめてそう述べる。地元の人間で、かつ機屋の仕事を熟知しているからこそ書けた、この敬慕に満ちた一冊によって、著者は「名もなき」女性たちの幾人かに、個別の顔と、名前と、声を回復させた。

 彼女たちの語りのあちこちに、装いの話が顔を出す。工場で糸を引くときの衣装は、黒沢志げ乃によれば「頭はハイカラ(庇髪)、袂の着物、広い帯、赤い襷、前かけ」。物日には「桃割れにするんが楽しみでタケナガつけてしっくらばねした(おどりあがってよろこんだ)もんでした」。

 ただ、自分が糸を引き、織りあげる絹織物は、他人の手へ渡っていく。高級なものは、自分は一生、身につけない。そのことを、何人かの女性が口にする。

「まぁ、長いことハタを織ったけれど、これがそうだと、銭を見せられたこともなくって終っちゃったねぇ……。手前(てめえ)の自由になったんなぁ、織りじめぇの銘仙ぎれぐれぇのもんだったねぇ」(井上イセ)

 美しい布、質のよい衣を、だれよりもよく知る、職人の手。その手にわずかに残る、しっとりと艶やかな銘仙の端切れをたぐる彼女を思う。はぎ合わせて小物でもつくったのだろうか。大事にしまっておいたのだろうか。