『アフリカ』を続けて(54)

下窪俊哉

 先日、スズキヒロミさんの案内で、さいたま市にある「藤橋」を訪ねた。『アフリカ』最新号(vol.37/2025年8月号)にスズキさんの書いた短い文章「「藤橋」覚え書き」が載っているが、それはこう始まる。

 昔々、あるところに、一本の橋がありました。その橋は藤の蔓を編んだ吊り橋で、村人から「藤橋」と呼ばれていました。
 藤橋は、村を流れる鴨川を渡り、そしてその先の道は中山道の宿場に通じておりました。そのため行き交う人は多く、荷を積んだ牛や馬も通りましたが、なにしろ藤蔓の吊り橋なので、渡るのに難渋する者が多かったといいます。

 ある時、そこに石橋を建設した人がいたそうで、小平次という六部行者だった。六部行者というのは「全国六十六カ所ある霊場の一つ一つにお教を納める旅」をしている巡礼者だそうだが、私は詳しくない。調べてみたところ、仏像を入れた厨子を背負って歩く人の絵を見ることが出来た。その周辺地域には旅をする行者が建てたとされる供養塔が散在しているそうで、小平次の話と何か関係があるのかもしれない。

 さて、その日はいい天気で、昼頃に大宮駅で待ち合わせた。とりあえず中華料理店に入りラーメンを食べ腹拵えをして、バスに乗った。バスの行き先には「藤橋」を経由すると書いてある。じつは私は「藤橋」という橋は現存しないと思っていたのだが、間違いだったようである。しばらく大通りを走り、二車線の、昔ながらの道に入る。スズキさんの書いているように「全くの平地」で、どこにいても空は広々としているようだ。「藤橋」バス停で降りる。バスはその先にある橋を渡り、走って行った。我々は歩いて渡る。橋の欄干には「ふじはし」と平仮名で書いてあるのが読めた。スズキさんによると「ふじばし」ではないかとのことだが、「鴨川」も「かもかわ」と書かれているので、濁るかどうかは、どちらでもよいことのような気がする。
 スズキさんは数十年前、車の運転を始めた頃によく藤橋を渡っていたと話していた。ただしその頃の藤橋は昭和初期にかけかえられた2代目の橋で、現在の橋は3代目ということになるようだ。何というか今風の橋で、伝承を知らなければどうということもない。川の両岸は土手で、桜並木が見られたり、お花畑があったりしてのどかだ。
 藤橋を渡った先に「藤橋の六部堂」という史跡がある。チェーンがかけてあって敷地内には入るなということのようだが、外から見ることが出来る。お堂の中には小平次の像があると聞いているが、それも見られない。見ることが出来るのはお堂の外側と、新旧様々な石碑と、裏に積まれた石材である。小平次が調達してきて橋に使われた石材を、そこに保存してあるということのようだ。石碑に書かれた文字に目を凝らす。古いものになればなるほど何が書いてあるかは読み取れないが、スズキさんが持参している資料と見比べながら少し解読を試みた。
 さいたま市指定史跡「藤橋の六部堂」の解説板は(それも少々色褪せてはいるが)読み取れる。そこには明治時代に近所の人が描いたらしい藤橋の絵も載っている。素朴な小さな橋のようで、橋の上にひとり、人が歩いている。

 川の水は透き通っていて、さらさらと流れていた。ふと思ったのだが、水量が少ないので、歩いて渡ろうとしても、それほど大変ではなさそうだ。雨が続くと、どのくらい増水するのだろうか(それを知るためには雨の日にも来てみなければならない)。住宅の建ち並んでいる方から見て対岸には、見渡す限りの畑が広がっている。その風景から想像出来ることはたくさんあった。川ではカルガモが遊んでいた(遊んでいるように見えるのはこちらの勝手だが)。歩くと、見えてくるものがたくさんある。再び川に目をやると、小鷺や川鵜(だろうか)が降りていた。
 舟が行き来出来るような川ではないのである。だから小平次は下流の、荒川と合流する地点まで石を運び、そこからは陸路で運ぶため(スズキさんが物語に書いたように)村に連絡したのだろう。ただし「「藤橋」覚え書き」では小平次は謎の人物として現れており、迎え入れる村の人びとの視点で書かれている。小平次が一体何者で、何処からどうやって石を運んだかなど詳細は、よくわからないままなのだ。
 わからないから、そこは書けなかったのだろうが、わからないことをわからないままにして、何を、どこまで書けるかということに私は興味がある。

 なぜ書くのか、ということを考えると、スズキさんは子供の頃から身近にあった橋の伝承にずっと興味があって、もっと調べたいという思いを抱いたまま長年、放置してきてしまったのだという。
 そのことがなぜ「なぜ書くのか」につながるのかというと、書こうとすることによって、調べることが出来るからだ。何もなくて、ただ調べる、そんなことが出来るだろうか。
 それはあるいは写真を撮るというのでも、絵を描くというのでも、映画を撮るというのでも、論文を書くというのでもよいのだが、スズキさんにとっては雑記のような文章を書くことから始まっている。その雑記は、いわゆるエッセイのようになるのかもしれないし、小説になるのかもしれないし、あるいはもっと違うものになるのかもしれない。それが何であれ、スズキさんが知りたい、調べたいと思っていることを実現させるためにあると私は考えるのである。
 ただ、「「藤橋」覚え書き」を読むだけでは、それが今後、どう展開していくのかということは、まだよくわからない。その土地を一緒に歩いてみればどうだろうと考えたのだが、予想していた以上に、感じられることがあったようである。スズキさんはそこに川鵜がいるということも想像していなかったと話していた。川をもっと書かなければならないし、江戸時代にそこがどのような土地で、どのような暮らしが営まれていたのかをもっと知る必要がありそうだ。
 そのようにして感じられることがあったとして、それでも、私は(私なら)まだまだ満足しない。例えば郷土史を研究している人、詳しい人はいるだろうから、その中に、きっと話を聞ける人がいるはずである。詳しい人でなくても、昔話の語り手でも何でもよい。小平次を書くのではなくその人を書くことになるかもしれないが、それならそれでもよいのである。
 何かを書くということの中には、誰かとの出合いがあるはずだと私は考える。出合いがあるということは、書き手が動いているということだからだ。動くために書くことを口実にしてもよくて、最終的に何か書いて発表することは止めてもよい。調べること、知ることが目的なのだから。
 あらゆる本はそうやって書き手が動いた痕跡を、記録したものだと私は捉えている、ということだろうと思う。だとしたら、その痕跡を受け取り、受け継いでゆく人がいることを奇跡のように感じる。