「疑いのなさ」について

越川道夫

10月の初め頃はまだかなり暑く、Tシャツを着ても汗ばむほどだったのに、それからみるみるうちに気温は下がり、下旬には身体を冷やさぬようにコートを着込んでいた。寒暖差の激しい日日を耐えながら11月になると、まだ早いのではと思わないではないのだが首が冷えるのを警戒してマフラーを巻いている。秋はあっという間に去ってしまい、辺りは冬の装いである。木木の葉はすっかり黄色になった。公孫樹の葉が一夜にして舞い落ちてしまうまでもうすぐというところである。夏の終わりに林の中で咲いていたテッポユリの種鞘が弾けて開き、やがて立ち枯れていくのを楽しみにしていたのだが、久しぶりに林を歩くと下草はすっかり刈り取られている。種鞘が開く前に刈ってしまったとみえて、今年はその姿を見ることは叶わないことになった。
 
寒くなって、また一つ二つと訃報が届くようになった。お別れの会が開かれることもあれば、その死のみが伝えられることもある。たとえ健康であっても急激な気候の変化は身体にこたえるのだから、病む人にとっては尚更だろう。思えば祖父が亡くなったのも、温暖な海辺の街には珍しく雪が舞う急に冷え込んだ日だった。祖父は、決して積もることはない雪片とともに逝ってしまった。
 
11月は18年ぐらい一緒に暮らした猫が死んだ月でもある。死んだのは2019年だから、もう6年も経つ。「18年ぐらい」と書いたのは、それが17年なのか、19年なのかはっきりと分からないからで、30代の終わり頃は仕事がひどく忙しく、「いつ、どこで、何を」の「いつ」の記憶がはっきりとしないのだ。彼と暮らし始めたのは確かだが振り返ると、それが何年何月何日なのか分からない。自動販売機で缶コーヒーを買おうとして、そのまま気を失ったりしていた頃だから精神的にも身体的にもひどくキツかったのだろう。脳がその頃のことを思い出すのを拒否しているのかもしれない。
 
それでも、彼を拾った時の様子はよく覚えている。駒場の路地奥のアパートに住んでいた頃のことである。その日仕事に出かけようとすると、路地の道の隅に何やら小さな白いネズミのような生き物が落ちている。見ると、それはまだ目も開いていない、生まれて間もない子猫なのだと分かる。路地には野良猫が多く棲んでいたので、おそらく母猫が落としていったものではないかと思われた。そのままにしておくやわけにはいかず、拾い上げるとちょうど手のひらぐらいの大きさで、近所の獣医に、どうしましょう、と相談すると、とりあえずあなたが育ててくれ、と言う。その頃は一人暮らしで、仕事で飛び回っていた時期だったので、どうしたものか、と思案したが、生まれて1週間ぐらいの子猫を部屋に放っておくこともできず、とにかくトートバックを買い、その中に彼を入れて打ち合わせに行き、打ち合わせが終わると公園を探し、そこで母猫がするように刺激を与えて排尿と排便をさせ、哺乳瓶でミルクを飲ませて、次の打ち合わせへ行き、それが終わるとまた公園で、と言うことを繰り返すこととなった。会社勤めでは、そんなわけにはいかないだろう。ひとりで仕事をしているからできたことなのだ。
 
しかし、生後すぐの子猫を育てるのは初めての経験である。手のひらにいるのは少し強く握っただけでも潰れてしまうであろう、ひどく小さくて柔らかな生命である。何度子猫が死んでいる姿を想像しただろう。私は怯え、どうしたら無事にこの世に送り出すことができるのかと必死であった。だから、おそらく生まれて2週間ぐらいが経ち、彼の目が開いた時は、ようやくここまでたどり着いたとひどく感慨深いものがあった。目が開かなかったら(そういうことがあるのかどうか分からないが)、どうしよう、とそんな訳のわからない不安も抱えていたのだから。
 
その夜、彼の右目が開きかけているのに気づいた。徐々に右目が完全に開き(その時点でまだ右目だけ開いて、左目が開かなかったらどうしようと不安だった)、それから程なくして左目が開き始める。完全に左目が開くまでにどのくらい時間がかかっただろう。見守る時間は、途轍もなく長く感じられたが、ほんの数分の出来事であったかもしれない。開いた子猫の目は、青い目をしているという。彼の目もそうだったのだろうが覚えていない。その時点で視覚は未発達であり、薄ぼんやりとしか見えていないだろうが、その彼が初めて見たものは、母猫でも、木漏れ日の眩い光でもなく、目が開いたことに安堵する中年男の貧相な顔であった。本当に申し訳ない。彼の視覚が初めて世界に開かれた瞬間である。それが美しさであったらよかったのに、と今でも思う。
 
彼はまだよくは見えない目で、真っ直ぐに私の目を見つめて離さなかった。私も目を逸らすことができず、二人はしばし見つめ合ったものだ。そして、その眼差しのあり方は18年余りの彼の生涯を通して変わることがなかった。私はそれから毎日、あの時と同じ眼差しに出会うことになったのだから。台所に立つ私を見上げる時も、撫でられようと膝の上によじ登ってくる時も、仕事をしていて振り返ると彼が少し離れたところから私を見つめている時も。
 
その眼差しに込められているものを何と呼べばいいだろう。「信頼」であるとか「愛」であるとか、そのような言葉で語ることもできるだろうが、今はそれを「疑いのなさ」と呼んでみたい。その「疑いのなさ」は終生変わることがなかったのだ、と。そして、その「疑いのなさ」が込められた眼差しが変わることがなかったことに、私は少し安堵を覚えている。正直に言えば、私自身が彼の「疑いのなさ」に応えることができたかどうかは自信がない。後悔することも多い。しかし、変わることがなかったのであれば、そのことが少しだけ私を安堵させる。
 
私を含め「人」という生き物は、彼らのような「疑いのなさを込めた眼差し」を持つことができるだろうか。そう聞かれれば、私の答えは否である。私には「人」がそのような眼差しを持てるとも、持ち続けるができるとも思えない。その意味で、「人」という生き物は、彼らよりも劣った生き物なのだろう。
「ただ生きていればいいんですよ」。
ある小説を読んで、そのような言葉に出会った時、「ただ生きること」の難しさについて考える。猫たちは「ただ生きている」がゆえに「疑いのなさ」もまた手にしているのではないか。「ただ生きること」が難しい「人」という生き物は、「疑いのなさ」の中で生きることはできない。きっと意味や目的という病に冒された生き物の宿痾なのだ。アシジの聖フランチェスコは、どんな眼差しを持っていただろうか? 小説家の小沼丹が死の直前に病室で「黙りこくって大学ノートに毎日描きつけたのは、かつて小屋の中で誕生した幼な子を見守った筈の短い足の馬たち」(阪田寛夫)であり、「その優しく和らいだ瞳の絵」だったのである。それは、どのような瞳なのか?
 
もしかすると、私たちはお互いの心臓と骨を交換するような、そのような愛し合い方でしか彼らのような眼差しを持ち得ないのかもしれない。「優しい」とかそんなことでは、まったくない。どちらが、どちらであっても構わないような。もはや与えられた名前すらどうでもよくなるような。