しもた屋之噺(287)

杉山洋一

東京に戻る直前のこと、高等課程を教えている打楽器もレオナルドから、「卒論に日本のタイコの研究を選んだので、ぜひ卒業試験見に来て下さい」と声をかけられました。
打楽器の練習室は普段レッスンや授業をしている109教室の下にあって、何となくレッスンしていても彼らの練習する音は聴こえるのですが、しばらく前から確かに和太鼓と思しき音が聴こえると思って訝しんでいたところでした。聞けば、レオナルドはコモにある和太鼓の会に参加しているのだそうです。
以前、うちの学校の打楽器科は、スカラ座の伝説的ティンパニ奏者デヴィッド・サーシーが随分長い事教えていて、ティンパニを習うために世界中から学生が集っていました。彼がいなくなってしばらく経ちますが、今は和太鼓までやるようになったのか、となんだかすっかり面白くなってしまいました。
そうして今回の東京滞在の最後、フェデーレのステージマネージャー、鈴木さんのアシスタントを務めていた梅津さんという可愛らしいお嬢さんは、長くミラノで活躍していらした素晴らしい打楽器奏者、梅津千恵子さんのお嬢さんだというではありませんか。梅津さんがデヴィッドのクラスで学んでいらした頃に、こちらはポマリコのクラスに潜り込んでいました。ちょうど、ドナトーニやマンゾーニを日本に連れて行って、作曲の講習会を開いていた頃の話です。
今回のフェデーレ招聘に際して、長くミラノで研鑽を積んだ浦部雪さんがワークショップを手伝ってくれたのですが、世代が一回りしたと実感とでも言えば良いのか、恰もめくるめく時間を駆け抜けて戻ってきた馬車を、感慨深く眺めているのです。

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11月某日 ミラノ自宅
母とTeamsでヴィデオ通話をしながら、むかし話。自分が生まれて3カ月のころまで、両親は目黒のアパートに住んでいたという。何でも義太夫の八代目竹本綱太夫氏の姉上のところに、父の知己を頼って随分長く住んでいたのだそうだ。権之助坂を降りて目黒川を渡ろうとすると、橋の手前で休んでいたおばあさんに、「川の向こうには昔はタヌキが出たものですよ」と懐かしそうに話しかけられたという。
昭和一桁から二桁初めに生まれた両親のそのまた親の世代になると、「田舎から出てきたお手伝いさんは、蕎麦を食べたことが‘ないから、食べ方を知らなかった」とか、電話を初めて見たひとは「柱に向かって話しているから驚いた」とか、「空に黒いものが飛んでいて、あれが皆騒いでいる飛行機か」と思いきや、翼を羽ばたき始めてよく見たら烏だった、というエピソードに事欠かなかった。出生率が落ちているそうだが、過去の記憶は、今後どのように伝えられてゆくのだろう。

11月某日 ミラノ自宅
Berceuse直し、頭にある部分だけでも直しておく。家人曰く、どこかで「何かを伝えるのは老人。表現するのが若さの証拠」と読んだそうで、なるほど言い得て妙と膝を打つが、わが身を振り返ると少々当惑する。
学校の聴覚訓練の授業は、学生たちにとってパズルのような感覚らしく、質問が解けると皆それぞれ大喜びしている。微笑ましい光景だが、何より、こうした「音を聴く喜び」とか「どんな音に耳を澄ます興味」といった愉悦、肯定的な姿勢を身に着けることが、音を聴く上で最も大切だろう。トリエステで勉強しているLが音楽院の教師と合わないので、うちのクラスに通いたいという。名指しされた教師も友人なので、少々困惑する。彼の許可を得て、彼のクラスを辞めないのなら教えてもよいと返事をする。

11月某日 ミラノ自宅
たとえば日本人が神社で柏手を打つとき、われわれが無意識に感じている拍感が浮彫りになる。この拍感は、他のさまざまな伝統芸能の拍節感と無関係ではないだろう。柏手を打つとき、手を打ったあとの沈黙に耳を澄まし、あたかも自分の打つ音が神々まで伝わったのか、耳で確認しているような不思議な時間がながれる。
まるであの瞬間、自分と神々との間に、さっと道が開けるような、あの独特な感覚は、少なくともカトリックのミサに参加していて感じることはない。確かに、神父が香炉を天をめざし高く掲げ、鐘が鳴らされる瞬間は神々しさに圧倒されるが、それは自分は護られている実感に満たされた絶対的安寧、超絶的安堵に近いもので、「神の国」という広大ながら絶対的な領域の境界線を、どこかで薄く感じ取っている気がする。柏手のあとの沈黙には、「神の国」の概念はなく、万の神々とつながる、という、言ってみればより素朴な関係で結ばれているようだ。
フェデーレの楽譜を読んでいると、構造は概して、外側から観察することでより明晰に可視化できると知る。自分の文化に関しては、生まれてこのかた、内側からしか眺めたことがなかった。それは丁度、赤子が胎内から世界を感じるようなもので、すばらしい体験に違いない。母親の躰の外から赤子を観察すれば、おそらく全く別の構造が浮かび上がるに違いない。
高市首相、衆院予算委員会の席で「戦艦を使って、武力の行使も伴うものであれば、これはどう考えても存立危機事態になりうるケース」と発言。

11月某日 南馬込
東京に向かう機内でプログラム原稿を書き、馬込の家に着いてさっそく脱稿。朝食を摂りながら、耀子さんとはなす。プーランク「メランコリー」の楽譜の最後に「Talence Juin/ Brive Aout 1940(タロンスにて6月/ブリ―ヴにて8月 1940年)」と記されている意味について。ナチス・ドイツ軍がフランスに侵攻したのは1940年5月で、フィリップ・ペタンが独仏休戦協定に調印したのは6月22日である。タロンスはボルドー近郊にある街でここは6月22日以降はナチス占領地域になっていたはずで、ブリーヴ=ラ=ガイヤルドはナチスに占領されない所謂自由地域だったはずだ。6月から8月にかけて、プーランクがナチス占領を避けてタロンスからブリ―ヴに逃れたのは間違いない。
耀子さん曰く、「メランコリー」つまり「哀愁」という表題と、曲の中間部、それまで美しかった音楽が唐突にUn peu plus vite(すこし速く)で不穏な音楽に変化するのは、ナチス侵攻におびえるプーランクの心情、フランス国民の慄きに違いないという。実は、高校生の頃に自分でこの曲を弾いた時から、なぜこの奇妙な中間部が何の前触れもなく現れるのか不思議に思っていた。言われてみれば、Un peu plus vite左手の、怪しげでどことなく軍隊風な16分音符には、très égal et estompéつまり、「頑なに変化させず、少しくぐもって」と書いてあって、明らかに音楽に世情が反映しているようである。調べてみると、プーランクは1940年6月に招集され、ボルドーの防空部隊で従軍した後、ドイツへの降伏後7月に動員を解かれブリーヴへ移っていた。つまり不穏な中間部が象徴する当時のフランスの世情は、耀子さんの指摘通りだったわけである。「やっぱり、楽譜だけ読んでも、わからないことは沢山あるのよ」。当時のフランスの状況からは、否が応でも今日のウクライナを想い浮かべざるを得ない。
その昔、耀子さんがオネゲルの「前奏曲、アリオーソ、フゲッタ」(と思しき曲を)を弾くことになり、オネゲルのオーケストレーションを手伝っていた彼の妻の前で弾いて助言を求めたところ、「この曲を書いた時、うちのメトロノームは壊れていたから、このメトロノームの数字は気にしなくていいわよ」と言われたそうだ。「だから作曲家のメトロノームはあてにならないわね」と破顔一笑。耀子さんがパリ音楽院にいた当時の作曲の教授は、トニー・オーバンとミヨーだった。オネゲルには何度も会ったけれど、普段パリにいなかったプーランクには、ついぞ会う機会がなかったという。
トランプ大統領はウクライナに対し、ドンバス地方の割譲、北大西洋条約機構への加盟放棄、軍備縮小など、事実上の主権放棄を迫っている。今後世界の情勢がどうなったとしても、以前のような均衡がとれる可能性はほぼないだろう。バランスを壊したのはプーチンだ、ネタニヤフだ、トランプだ、と我々が叫ぶのは簡単だが、彼らを選択してきたのは、我々自身であることを忘れてはいけない。

11月某日 南馬込
コモのセルべッローニ宮での息子のリサイタルを聴きに行った家人より、少し興奮した感じで報告あり。彼女曰く、演奏が始まった途端、会場の雰囲気がとても良くなったという。「親の欲目」とはよく言ったものだが、実際聴いたわけではないので判然としない。それよりも驚いたのは、音楽祭を企画していたのが旧知のロッセッラだったことだ。昔から活動的な女性だったが、もう随分前からコモ・ベッラッジョの音楽祭を切り盛りしているそうだ。家人と二人、笑顔でおさまる写真が送られてきた。
フェデーレの「夏・俳句」の楽譜を読んでいるのだが、アルファベットで書かれた歌詞を平仮名で書き直さないと、頭のなかの歌手の発音もイントネーションも、すべてヨーロッパ語風になってしまうのは何故だろう。無意識に「a」と「あ」の発音が、自分にとっては、まるで違うのである。これはなかなか興味深い発見であった。とその時、ふと「マダガスカル島の土人の歌」の「Aoua! 」が脳裏に浮かんだ。実は全然違う発音だったら、どんな風に響くのかしら。「マダガスカル島…」を想いうかべるとき、少し速めのテンポでくっきりとした輪郭を描く、どことなく厳めしい、マドレーヌ・グレとラヴェル自身による演奏がどうにも耳から離れない。
大森まで自転車を使い、町田のプリンターを直しにでかける。たったそれだけのことながら、シジミのお吸い物、ハマグリの酒蒸し、鯛の煮付け、自家製のかますの干物で歓待を受ける。親が何歳になっても、子供であることには変わらない。

11月某日 南馬込
書いて呉れ、書き取ってくれ、と叫ぶ声ばかりが聞える。正しいかどうか分からないが、書かなければ一生後悔するに違いない。
朝、耀子さんの弾くピアノの音で目が覚める。昔、三善先生が同じようなことを日記に書いていらしたのをふと思い出した。耀子さんは、ラヴェル「ソナチネ」2楽章、最後の跳躍を、ゆっくりゆっくり、慈しみをこめて丹念に繰り返していて、その音の美しさに心を打たれた。大胆に奏される左手の低音は、とても活き活きとしていて、まるで独立して聞こえる。
「ソナチネ」1楽章冒頭の16分音符と32分音符は同じ長さで同じように弾くべきか、と質問を受けたが、音価も違うのだし、当然違う楽器が弾くはずだろうと答えたところ、じゃあなぜ皆同じように弾くのかと畳み込まれる。2楽章の最低音の声部が、4分音符に余韻が残るように指定されている音符と、2分音符に余韻が残るように指定されている音符の違いに関しては、4分音符の部分は、オーケストラであれば、低弦楽器が豊かにピッツィカートしているような響きで、2分音符であれば、弓で弾いて余韻を残しているようなイメージではなかろうか。

11月某日 南馬込
「考」リハーサル。西大井まで自転車を漕ぎ、渋谷まで湘南新宿ラインを使って、田園都市線に乗り換える。演奏者の皆さんに遠慮もなくなって、リハーサルの到達点をずっとこちらの演奏解釈に寄せてしまっている。その分、演奏はとても難しいはずだし、従来の演奏スタイルと違う箇所も多いはずで、ご苦労をかけているのは充分承知しているけれど、安全に弾けること、を第一条件にする発想をほぼ拭い去り、作品が本来望んでいたであろう姿に、どのようなアプローチで肉薄できるのか、その道程を丹念に探してゆく。
予定調和的な安定感がなくなってゆく代わり、常にその場で生まれる瑞々しさと、ほどよい緊張感を共有しながら、音を聞くというより、音楽を進ませる気の流れを共に感じ取ることで、フレーズが途切れることなく、たゆたうような音楽の息が浮かび上がってくる。

11月某日 南馬込
「考」演奏会。演奏者の皆さんは見事な演奏を披露された。転じて自分はどうだったかと言うと、クリーニングに出した本番衣装のなかに、あろうことか本番用のスラックスが入っていなかった。今まで揃いの上下は同じハンガーに纏められていたのが、新しいクリーニング店はどうやら別の袋にそれぞれを入れたのだろう。慌てて、琴光堂の中島さんから借りた黒ズボンで本番をこなした。
「何十年ぶりと言えば、今夜の指揮者、杉山洋一氏がまだ小学生の紅顔の美少年だったころに遡ります。夏の暑い日、杉山氏のヴァイオリンの先生篠﨑功子氏の提案で、私の大先輩で作曲家藤田正典氏と四人で、杉山氏の御祖父様が経営している湘南海岸にある海の家に遊びに行くことになりました。初めての訪問を快く出迎えて下さった杉山さんの隣で、少年洋一君がニコニコしながら「こんにちは」と元気な声で歓迎してくれました。泳いだり、ビールや海の幸をたらふくご馳走になったり、トランプで遊んだりした楽しい一時はあっという間に過ぎ、懐かしい夏と思い出となりました。…」。
このように田中賢さんはプログラムに書いてくださったが、自身が演奏していたガムランに着想を得た田中さんの曲は、実に闊達で新鮮な響きがした。年齢を重ねても、こんなに瑞々しい呼吸で音楽が書けるなんて、作曲家とはなんて素敵な生業なのか、とさえおもう。田中さんは演奏会後も、「洋一君は昔はとても利発そうで紅顔の美少年だったんですよ」、と繰り返していらしたから、当時は余程美少年だったのだろう、と思うことにする。そう言われてみれば当時、しばしば「まあ可愛らしいお嬢さんだこと」と言われることがあって、本当に嫌だった。円安が進行。1ユーロ181、52円。

11月某日 南馬込
ミラノを発ってチューリッヒ経由で日本に着くはずのフェデーレ夫妻のフライトが、出発1時間前にキャンセルになり、改めて預けた荷物を受け取りチェックインし直して、北京経由で成田に到着した。30時間近く殆ど寝ていないので、二人とも相当困憊していたようだ。昨年のシャリーノとは全く違い、選ぶ単語も直截なら、表現も単刀直入であった。音楽は言語であるから、音楽に本来備わっている、記憶に基づく文法をより洗練、鍛錬してゆくことで、音楽を通して自分の意図を他者に伝えられるようになる、というのが、基本になるフェデーレの主張である。頭の中で生まれた音楽を、少しそこから外側目の先50センチくらいまで引っ張り出し、そこでその生まれたアイデアを改めて直視し、丹念に観察しながら、どうすれば自分が望んでいる音がを自分の外で鳴らすことができるのか、客観的に考えることを勧めた。フェデーレはドナトーニの言葉を引用し、素材は生み出すものではなく、目の前にある素材を、頭の先から足の先まで何度となく観察することで、その素材が持っている可能性を十二分に引き出すことができる、と力説していた。
音の響きを豊かにするために、例えばアタックをほんの少しだけずらした、ディレイの観念を学生に説明していた。同じ音をずらすことが楽器法的に出来ない場合でも、オクターブを入れ換えるだけでなく、自然倍音列に則って長3度、完全5度、短7度上の音を付加することで、単音の動きに影や厚みを与え、より簡便に自然倍音列の近似値を実現すべく、6分音の使用を勧めてもいた。
彼が日常的に活用している、完全五度圏や6分音のチャートも学生たちに惜しみなく共有し、彼が素材を発展させる方法を学生たちに指南していたし、フィボナッチの数列や、或る点を境にトートロジーで繰り返されるジョン・コンウェイの読み上げ数列の面白さについて話し、それをどのように活用して作曲するかについて、あまりに包み隠さず話してくれるので、少し驚いたくらいである。
これらすべては、単なる作曲支援であることを強調し、今後どれだけ人工知能が発展して便利で有益な作曲支援が可能になっても、作曲するのは自分であることを忘れてはいけない、と念を押すことは忘れなかった。そうでなければ、人工知能に我々が作曲させられるようになってしまう。そうして、いつも一通り話してから最後に、「これが作曲の技、というものだからね」と満足気に云うのだった。
「これらすべては、自分のユーチューブ・チャンネルで、楽譜付きで聴けますから。ぜひ、チャンネル登録もお願いしますね」と言っては、学生たちの笑いを誘っていた。
今日は「秋吉台の夏」ですっかりお世話になった河添達也先生が、フェデーレに会いに来てくださって、何年かぶりにお目にかかることができたのも嬉しい。遥々松江から羽田の弾丸日帰り訪問だったが、ストラスブールでは、フェデーレの下で作曲の研鑽を積んだ、と伺っていた。「秋吉台の夏」のように、若い作曲家、演奏家が肩を並べて、目を輝かせながらレッスンに参加している姿を、目を細めて眺めていらしたのが印象的だった。
アムネスティ・インターナショナルが、ガザでの虐殺が継続していると発表。10月9日の停戦合意以降、現在まで少なくとも327人死亡。そのうち子供は136人。2023年10月以降、パレスチナの犠牲者は7万人を超えた。

11月某日 南馬込
自作演奏について、フェデーレは楽譜の表記にとても忠実だったように思う。自分は細かい性格だから、と笑っていたが、フェデーレは1993年頃までは、室内楽を得意とするピアニストとして活動も続けていた。そのためか、作曲のレッスンの間も、自作のリハーサル時も、しばしばピアノも前に座って実際に演奏をしてみせてくれた。彼の深いタッチは、いつもイタリア人らしい音を響かせていて、学生にも鍵盤の奥底で歌うことを要求した。書かれているアーティキュレーションには厳しく、テンポやリズムにも忠実であったけれど、音楽的なフレーズ、特に弱音の繊細さを繰り返し要求するのだった。自ら演奏に携わっていたから、本番に向けて演奏家にどこまで要求して、どこまでを本番の集中力に賭けるべきかさえ良く理解していたし、理知的な美学を高らかに讃えながら、その実、実演に於ける即興性や、用心深い反復の回避や音色の実現など、演奏家らしい引き出しは決して錆びついていなかった。だから、たとえ一見あまりに理性的に感じられる譜面から、驚くほどの情熱を引き出し、演奏する喜びを我々に還元する。演奏会を聴いた両親は、思いの外愉しかったようで、「研ぎ澄まされた響きっていうかね…」、最初から最後まですっかり聴き入ってしまった、と興奮していたのが印象に残った。

11月某日 南馬込
トロトロになった庭の渋柿を、ヨーグルトに入れて朝食にした。部屋の目の前には、ブーゲンビリアが赤紫色の美しい花をつけていて、さまざまな鳥たちが代わる代わる訪れるのを眺めている。我ながら、自分の優柔不断に呆れかえりながら、ああでもないこうでもない、と楽器を入れ換えている。
昼過ぎ、渋谷のブックカフェ「days」でMさんと再会。暫し話し込んだのち、せっかくの機会だから、神谷町の光明寺に連れて行っていただく。エレベータで2階に上がるとMさんの言葉通り、東京タワーがすぐ目の前にそびえている。サントリーホールまで、ここから歩いて10分ほど。こじんまりとした部屋全体が心地良い純白に包まれていて、大きな窓の採光と相俟って、時間の感覚も失いあたかも天上のよう。2枚の写真の間には誕生日が縫いこまれた、小さなクマの縫いぐるみが佇んでいて、隣で彼女は少し涙ぐんでいらした。連れてきていただいて申し訳なかった、と内心後悔しつつ、でもやはり訪れることができてよかった。子供の頃、事故で気を失っている間に垣間見た、闇の奥で燦然と輝く大きな窓とも扉ともつかぬ何かを思い出しつつ。

(11月30日 南馬込にて)