昔読んでいた本を読み返してみようと思って、花田清輝の古本を買ってみた。知らないタイトルばかり並んでいる。知っているものも、内容はほとんど覚えていなかった。
読んだと思った文章も、何か知らないものに変わっている。そんなものかもしれない。そこで何か発見があっても、それは書かれた文章なのか、それを読んでいる今、頭をかすめた無関係なことばなのか。
20年ほど前に書いた自分の曲を弾くコンサートがあった。書かれた音符や指示は、意味がわからなくなっている。時代が変わったのか、その時書いたことがもとから意味不明だったのか。多分その両方だろう。
音楽を作る即興と演奏と作曲が一つになった試みを、ピアノの鍵盤ですること。
音を連ねて一本の線を編む。その線の周りに別な幾つかの音をあしらう。それが第二の線になって、二本の線が、対位法になったり、添えられた音が和声になったりしないように。線と響きと「間」以外の規則があるように見せないで済めば。
離れた場所から全体の形を見ることと、手触りを感じながら音から音へと移っていくことと、その両方を 意識しながら、と言っても、どちらかに重みをかけては、沈まないうちに重心を移していくだけなのか。
実際起こっているのは、言葉で言おうとするのとは違う感じがする。とすれば、こんなことを書いていると、現実と離れていくばかり。することと、したことを言葉にすることの間のずれ。こんなことになるなら、書くだけむだか。言葉になる前に言葉にしているのかもしれない。