簡潔な線 透明な響き

高橋悠治

今年2月浜離宮でホールでピアノを弾き、4月には室内オーケストラのための『苦艾』を京都で初演した。その二つを聞いた浅田彰がREALKYOTOに書いたレポートを読んで、思ったことをすこし書く。

浜離宮のキャッチワードに使った「簡潔な線、透明な響き」はクリスチャン・ウォルフの音楽についてだれかが言ったことをすこし変えたことばだった。ウォルフの曲を中心にしてバッハの『フランス組曲』もハイドンのソナタも、ウォルフの好きな音楽らしく、ジェズアルドと自分の曲も、たまたまその方向だった。

『苦艾』で距離をとって配置した楽器のあいだで短いフレーズを投げ合う「ホケット」や、ほとんど一つの線をずらしたりなぞるだけの薄いオーケストラの響きも、ウォルフや昔の近藤譲のやりかただったが、やってみるとまったくちがうことになる。演奏も作曲も、あるものをきっかけにはじめても、他人の感覚ではできない。

演奏は、楽譜を毎回読み、読みなおすなかで、解釈や表現は考えず、構成や論理はどうでもよく、楽譜に書けないリズムや音色のかすかな変化がおもしろくて、うごきが音をはこんでいくのにまかせて、外側の音が身体のうごきに移ってくるのを待ちながら、あれこれ試してみる。ヴィゴツキーが観察したこどもが、そっと自分に言いきかせることばが内側に染みこみ、かたちが消えて意識もされない心の根になっていくありさま、ロベール・ブレッソンのモデルたちが眼を伏せて何をしているかも知らずにしているうごきに近い、と思うこともある。

作曲は、『苦艾』の場合、連句の朗読につけた音楽でもあり、連句の「付けと転じ」を使って書いた音でもある。エピクロス的な偶然のわずかな偏り、クリナメンが音の道を逸らして、構成するのとは逆方向に、短いフレーズの形をたえず崩していく。

演奏は練習が本来の場で、作曲でも目標や意味や根拠はなく、音をあれこれ試しあそぶだけ、コンサートはその上に慣習の衣を羽織っているだけとも言える。音楽は職業だから、生活のためにやるべきことはすこしはある。それ以上のよけいなことをしないで、ひっそり暮していられればいいだろう。