犬井さんの計画通り、僕と小湊さんを乗せたバスは、一度車庫に入り、ほかのバスの入庫と入庫の隙を突いて再び公道へ出た。犬井さんはバスの照明を極力落とし、ヘッドライトだけの状態にして走る。
ここまで走ってきた道を半分ほど引き返すと渡辺先生の家に着いた。意外なことに渡辺先生は住んでいるマンションのエントランスから外を見ながら、僕たちの到着を待っていた。
渡辺先生はとてもちょっと困ったような顔をしていたが、それでも僕がバスから降りていくと笑顔で迎えてくれた。もちろん、その笑顔は僕たちのこれからの行動が自分の表情ひとつにかかっているのかも知れない、という緊張に覆われている。だけど、僕たちの行動はちゃんと計画されていて、渡辺先生の笑顔には左右されない。僕はそのことを先生に伝えて、余計な緊張をしないでほしいと願うのだけれど、うまく伝えられなくて、僕もへんに緊張した笑顔を浮かべてしまったのだと思う。渡辺先生と僕は互いにちょっと歪んだ笑顔のままで、なぜだか握手をした。
「小湊から、この時間にエントランスに出ていてくれと言われたんだが…」
「はい」
「これは斉藤が黒幕なのか」
黒幕と言われて、僕は笑ってしまう。普段とても大人しい小湊さんがまさかバスで自分を迎えに来るなんて先生には想像も付かなかったのだろう。だけど、それを言うなら僕だって小湊さん以上に大人しいし、学校で目立ったことをしたことがない。そのことは先生だって充分にわかっているのだろうけれど、そこは男だということで、とりあえずは僕が首謀者なのか、と聞いたのだろう。
「いえ、僕ではありません」
「やっぱり、そうか」
そうつぶやくと、先生は僕の背後に停車している路線バスを見る。僕が振り返ると、小湊さんがバスの窓をあけて、顔をのぞかせている。先生は首謀者で黒幕の小湊さんを落ち着かせようとしてなのか、満面の笑顔で小さく手を振る。
「先生、小湊さんはとても落ち着いているので、大丈夫です」
「そうか」
「はい。小湊さんはとても落ち着いていて、一応、小湊さんの希望のようなものがあって、それを穏便に叶えたいと願っているだけなんです」
渡辺先生はしばらく考えてから、わかった、と言った。そして、僕の隣をすり抜けて、バスに向かって歩き出した。僕も先生の後につづいた。先生はバスに向かいながら僕に話しかけた。
「小湊は自分の希望が叶えられなかった時にはどうしようとか、そんなことを考えているのか」
「いえ、なんにも」
先生は僕を振り返った。
「なんにも」
「はい、なんにも考えていません。もし、先生がこんなことしちゃだめだ、と言ったらそこでこの計画はお終いです」
先生はまた歩き出し、前を見たままで、そうか、とつぶやいた。
僕たちはバスにたどり着いた。前方のドアが開く。先生が先に乗り込む。運転席に座っている犬井さんが「こんばんは」と声をかける。先生は少し驚きながら「こんばんは」と返す。バスを運転する人間がいるのは当然なのだが、僕と小湊さん以外の自分の知らない人がいることに驚いたようだった。自分の生徒以外の人がいることで、小湊さんの計画がどんなものであるにしろ、とてもデリケートで危険なものになったという実感があったのだろう。先生は犬井さんに挨拶をしたあと、犬井さんの顔を見つめたまま、立ちすくんだ。