しもた屋之噺(28)

杉山洋一

3月の上旬、それまでの厳しい寒さも緩んで、街の木々の蕾が一斉に膨らんだかと思いきや、ここに来て底冷えする毎日が続き、スイス国境あたりの山々の尾根も、寒気で雪に覆われてしまいましたけれども、気がつくと、拙宅裏の桜並木が紫色のあでやかな花を開いていて、今晩から夏時間に切替わるのを、自然の方がよほど心得ているように思われました。

今日午後の便で、友人の遺骨が、ご主人に抱かれて日本に帰ってゆきました。10年来ミラノに住んでいて、友人や恩師のはなむけに何度か立ち会いましたが、日本の友人が逝去したのは初めてで、普段すっかり感じなくなっていた価値観の相違に、改めて感じ入るものがありました。何の因果か4年前ドナトーニが横たわっていた地下の霊安室に彼女を訪ねると、相変わらず殺風景な2畳ばかりの白タイル貼りの個室に、換気扇の音だけ虚しく響いていました。

日本なら亡骸を家に持ち帰り、しめやかにお通夜を過ごすところでしょうが、かかる習慣のないイタリアでは、遺体はそっけない霊安室に残されたままなのが寂しいところです。葬式と言っても、花輪を飾った多少広い個室に遺体を移し、友人が順番にお別れしてから神父に祝福を授けてもらうだけの、はなはだ簡素なもので、「そんなお気遣いはご無用」と常套句を独りごちつつ、神父がお礼袋にほくほく手を伸ばすさまのみ、日本の葬式坊主と瓜二つで、感慨深く思いました。

日本と比べ、棺が大層頑丈で賑々しいのは、土葬が一般的なキリスト教の習慣に則ったものに違いありません。そのまま火葬場で燃やすために作られた日本の棺桶とは、意図が根本的に違うのです。日本なら、最後に遺族が順番に石を持ち、涙を拭いつつ釘を打ったりするところですが、こちらは情緒もへったくれもなく、電動ドライバーで葬儀屋が首尾よく閉めてゆきます。

遺体を日本に搬送する許可を得るのが厄介なので、葬儀のあと荼毘にふすため、遺体はミラノ郊外の斎場へ、霊柩車で運ばれてゆきました。日本ならタイミングよく荼毘にふされ、数時間後には遺族が骨を拾ったりするところですが、イタリアではただ遺体を斎場に預けるだけで、数日経ってから「出来上がっております」と連絡が入るのだそうです。骨壷に骨を入れる順番にまで細心の注意を払う、日本人の殆ど芸術的な感性とは程遠く、ただセラミックの骨壷に詰めてあるだけで、「喉仏」も何もあったものではないようです。

穿った考え方をすると、あの棺、頑丈に作られすぎているし、鉄で下側が補強されていて、どうやってもあのまま荼毘にふすことは出来ないように思われます。斎場では何日か経って荼毘にふすらしいので、斎場に預けられた後、どうやら改めて電動ドライバーで棺を開け、亡骸を出して、遺体のみ焼かれることになるに違いありません。日本人の感覚では、キリスト教の「永遠の平安」とは程遠い扱いに憤りすら感じますが、彼らの感覚からすれば、もしかするとそれなりに筋は通っているのかも知れません。あの棺も恐らくリサイクルに回され、次回はイタリア人か、案外アルバニア人あたりの相手をすることになるのかも知れませんが、住宅から家具まで、古いものを流用するのが誇りの人種ですから。

最近はイタリアの墓地も敷地不足で、10年ほど集合墓地に置いてから、改めて棺を開いて遺骨だけを拾って、骨壷に詰め直し、もう少し立派な墓地に埋葬しなおすとか。かような感覚は我々には到底理解出来ませんが、流石にこれはイタリア人も同じらしく、最近では初めから荼毘にふし、どこか適当な場所に埋葬する傾向にあるそうです。

日本に遺骨を持って帰るためには、特別の許可証、一種のパスポートが必要なのだそうです。以前、在日韓国人の音楽家がミラノで亡くなったときは、故人が韓国籍だったため、日本に遺骨を帰してあげるのが大変だったと聞きました。外国人として生きる厄介は、こんなところにも現われます。

友人には、小学校に上がろうかという未だ幼いお子さんがいるのですが、学校の先生たちは、「ショックで子供にトラウマが残るので、頼むから遺骨を子供に見せないで欲しい」とご主人にくれぐれも頼んだということですが、この辺りも、日本人の感覚とは少し違うではないでしょうか。我々は死んで骨になるのは当然の摂理として受け入れられますが、話を聞いてみると、彼らにはグロテスクな印象を与えるようです。

逆に言えば、彼らが死者を笑顔で祝福するのに、エキセントリックな印象を禁じ得ません。泣き女までゆくと大袈裟かとも思いますが、せめて坊主が無表情に南無南無と唱えてくれた方がしっくり来ます。傍らで遺族が泣き崩れているのにも関わらず、神父が亡骸に向って「いやあ、めでたい。これであなたも、天国で主とともに永遠の平安を成就されるのです」、と晴れやかにのたまわれても、妙に空々しく感じてしまうのは、自らの精進が足りないのかも知れませんが。

そんな諸々の出来事に感じ入っていると、ヴィオラのパオロが突然、「君は生まれ変わりを信じるかい」と尋ねてきました。「特に興味はないけれど」突拍子もない質問に少々面食らいながら答えました。「君はカソリックなのかい。何れにせよ、キリスト教の教えとは矛盾するだろう」「確かにカソリックでは輪廻転生を否定するけれど、そういうことではなくて、大いなる存在としてのイエスを信じているのさ」「キリスト教というより、メシアを待ちこがれるユダヤ教みたいだな」隣で聞いていたヴァイオリンのアルドが口を挟みました。「次に生まれてきたら、君は鼠だったりするかも知れないんだぜ。それでもいいのかい」「それはそれでいいだろう。今自分に与えられている人生を、誠実に全っとうしたいだけだからね。そうして生れ変ったら、また新しい人生を懸命に生きぬくだけさ」

(3月29日モンツァにて)