製本かい摘みましては(101)

四釜裕子

月の始めにカレンダーをめくる。旭川のアドヴァンス社の大きなものと、栄光舎の3カ月一覧型の2つ。部屋掛けはこれっきり。実家には各部屋にカレンダーがあった。トイレや廊下、洗面所にも。茶の間にいたってはたいてい2つ。小さいころは柱に日めくりカレンダーもあり、おはようを言うころには毎朝祖父が「今日」にしていた。柱時計のねじを巻くのもジュウシマツに餌をやるのも祖父。どれも子どもには興味のあることで、ねだるうちにカレンダー以外は姉とわたしのしごとになった。『時をかける少女』で日めくりカレンダーをめくるのは原田知世の妹。祖父はなぜ孫にそれを譲らなかったのだろう。ただいちばん早起きだったからとは思うけど。

アドヴァンス社のカレンダーにはきまぐれに予定が書き込んである。電話をしながら、話しをしながらのなぐり書き。二重三重丸に矢印など。改めて見ると、予定が変更になったときに書き込んでいる場合が多い。けっこう可笑しい。あるとき思った。細かく記録するたちでもないくせに日記や手帳はいつまでもとっておく一方で、めくったカレンダーはなぜこうも当たり前のように捨てるのだろう。破るからか。そのことで「カレンダー」としてのかたちは瞬時に無くなり、いらぬものになってしまう。切った野菜が排水溝に落ちた瞬間に生ごみになるのに似ている。終わったぞ、めくるぞ、破るぞ、捨ててやる。とりかえしがつかない、というエクスタシーを与えるアクションだ。このアクション連鎖を断ってみたい。破った1枚を捨てたくないかたちに変化させたらどうだろうと考えた。

カレンダーの一日分の大きさが等しいことは、「本」のかたちに限りない親和性を感じさせてくれる。周囲の余分を切り、左から右から交互に切れ込みを入れて蛇腹に折って、一日分を一ページとした本のかたちにする。これをよくプレスしているあいだに、カレンダーに大きく描かれた「月」をあらわす数字の部分を切る。数字が表1にくるように案配して折り、表紙カバーとして中身にかぶせる。何冊も作るうちに蛇腹折りのずれは減り、束も、チリのとりかたも安定してきて、左右520ミリ、天地750ミリのひと月分のカレンダーが、左右75ミリ、天地100ミリ、背幅5ミリ、文庫本のおよそ半分の大きさの「カレンダー本」になった。限定一部の月刊誌の発行が今も続いている。