「ライカの帰還」騒動記(その10)

船山理

新潮社への入稿に、あらかたメドがついたころ、マガジン社の近ごろの動向が耳に入り始めた。正直、社内のドタバタなどに興味はなかったのだが、自分の部署やスタッフにも影響しかねないとなると、あまり能天気でいるのも何だな、と思う。社内で飛び交うウワサ話の中に「船山はハシゴを外された」というのも聞こえて来たから、ほー、そうなのか、うんうんと、ひとりで頷いていたのである。

私が作家さんとの打ち合わせで社外を飛び回っていたせいで、社内事情にすっかり疎くなっていたこともあるのだけれど、いくつかのウワサ話を組み立てると、何となくその全貌が見えてくる。まず、経理部の女性の寿退社があった。これは式にも呼ばれたし、ビデオ撮影も依頼されたからよく覚えている。問題はその後任人事で、会社はこれを契約社員にすると組合に通達した。今どきなら、何てことない話だと言っていい。

ところが、それまで会社との間でこれといった争点のなかった組合にとって、このことは格好の攻撃材料になった。いわく、これまでマガジン社の業績を支えてきたのは、社員の頑張りに他ならない。なぜ正社員として迎えないのか。契約などという不安定な雇用は許さない、と噛みついたのである。これに対して、会社側は「社員採用の条件を含む、すべての人事に関する裁量は会社に帰属する」と一蹴した。

そして組合は、この回答に「残業拒否」で対抗する。確かに雑誌は編集スタッフの頑張りで支えられている部分が少なくない。誰も好き好んで残業を繰り返すわけではなく、担当ページのクオリティをキープするには、自分の身を削る以外に手段は見当たらないし、編集現場は半ば、これを当然のこととして受け止めていた。そこに19時以降の残業を拒否するとなると、雑誌の「勢い」は見事に止まってしまう。

この事態を会社も組合も甘く見すぎていた。会社側にしてみれば、多忙な部署では通常の勤務時間の倍近くにもなる膨大な残業代を払わずにすむのだから、結果的に大幅な人件費の削減になる。組合側にすれば、残業がなくなれば、もっとゆとりのある生活が楽しめるので、何の不都合があろうか、というわけだ。どちらもこの会社を支える原資が、どうやってつくられているのかを見失っていたのである。

私に言わせれば、これは双方の「平和ボケ」以外の何ものでもない。これまで順風満帆で来ていたこの会社は、潤沢な内部留保金とその運用益で経営的には何の問題もない、と判断していた節がある。ところが組合の残業拒否は、あるまいことか1年半も継続した。これは雑誌社の寿命を縮めるには、充分すぎるほどの時間だった。雑誌の実売り部数は軒並み大幅ダウンし、編集長たちは蒼白になった。

意地になって一歩も引かない構えを続けていた社長の林さんに、会社のオーナーが助け船を出した。これが常務の大園さんである。しかし、この人には野心があった。ウワサ話の中には、彼が「マガジン社の次期社長はオレだ」と、あちこちで吹聴しているというのもあった。そして編集担当取締役だった見山さんを更迭し、編集と営業の役員に自ら抜擢した若いスタッフを配置して、林さんへの包囲網を築いたのである。

次に彼が手がけたのは、林さんの提唱した「余計なこと」の芽を摘むことだ。コミックの事業展開は、まさにその筆頭だった。とんびの眼鏡・総集編の販売価格が、当初の予定から大幅に引き上げられたこと、販売部長と新しい編集担当取締役を伴ってのコミックコード取得で、あまりにも唐突な引き下がり方をしたこと。なるほど、すべてに辻褄が合ってしまう。ハシゴを外された、というのは、こういうことか。

つまり、あの取次でのコミックコード取得交渉は、茶番劇であったということだ。知らなかったのは私ひとりで、取次の担当者はウチの販売部長と口裏を合わせ、調べればすぐわかるようなウソまでついて、私にコード取得をあきらめることを強いた。ははぁ〜ん、である。新編集担当取締役の田中さんが「ウチでコミックをやるのは最初から無理だったんだ」と言った言葉も、これで納得がいく。

要するに「とんびの眼鏡」は、ウチの会社では成功してはならないものとして、決定づけられていたことになる。私はこのことを確信したとき、大いに落胆したかと言うと、それは微塵もなかった。大手出版社である新潮社が注目してくれたことに、誇らしい気持ちでいっぱいだったからだ。もっともこの単行本の話がなければ、私の気持ちはズタズタだったに違いないのだが。

ややあって、とんびの眼鏡・総集編の販売実績が出たというので、私は役員室に呼び出された。そこには林社長の姿はなく、大園さんの左右に編集担当取締役の田中さん、営業担当取締役の梶田さんが陣取る。大園さんは販売部から提出された書類を前に「7万部を刷った総集編の実売り部数は、わずか1万部にも届かなかった。この責任をどう取るつもりだ!」と私を一喝する。私は茶番劇に付き合うつもりはなかった。

とんびの眼鏡・総集編は、月刊カメラマン別冊というカタチで販売されました。これは後に取次からコミックコードを取得し、単行本として展開するための布石だったはずです。書店の店頭に2週間という、ごく短期間の販売にも係わらず、しかも廉価版でありながら法外な価格を付されて販売されたこの総集編は、1万部と言えども大いに健闘したと思っています。私は彼らの前で胸を張って答えてみせた。

大園さんは苦虫を噛み潰したような形相になり、やがてあさっての方角を向いて「これでコミック編集部は解散だな」と言う。私にはこれも織り込み済みだった。会社に望まれない、足もとのしっかりしない部署で、大事な作家さんたちとお付き合いさせてもらうわけには行かないからだ。私はニッコリ笑って、たいへん残念です。それでは後処理に回らせていただきますので、これで失礼しますと席を立った。

やがて、コミック編集部は翌年3月末をもって解散する旨、通達が出た。さすがに素早い対応だ。と感心する。3月末と言えばまだ半年はある。この時間を有効に使って、吉原さんを始め、係わらせていただいた作家さんたちへの連絡や、突然に連載が終わったという印象を持たせないよう、各編集部の編集長たちと綿密な打ち合わせを行なう。編集長たちは、一様に私に気の毒そうな目を向けてくれた。

私にしてみれば、とんびの眼鏡が「ライカの帰還」と名を変えて、新潮社から単行本出版されるんだよ! と彼らに伝えたかったのだけれど、これはもう少し内緒にしておこうと思った。私がその制作に係わったということが知れると、余計なトラブルを招きかねないし、ヘンな横槍を入れられるのもマッピラだったからだ。もっとも心配だったのは、マガジン社が何らかの妨害工作をすることだった。

しかし、これは杞憂に終わる。例の友人からの受け売りだが、たとえ企画そのものが、その出版社のものであり、連載中の原稿料を支払ったからといって、出版社には何の権利も生じない。作品の著作権はすべて作家に帰属し、作品をどこで出版するかを含めて、作家さんにすべての権利が生じるということだ。判型に関しても、総集編のB5サイズに対して新潮社の単行本はA5サイズであり、これもクリアしてしまう。

いくら出版社が、これはウチが携わった作品だと言っても、作品はあくまで作家さんのものなのだ。掲載権という言葉があるとしても、出版社はその第一次掲載権を作家さんから「借りている」に過ぎない。だから、どちらかの都合で他の出版社から単行本が出ることになっても、誰も文句は言えないのである。さすがに同じ判型で出すことはご法度だが、サイズが違えばOKというわけだ。

念のため、私は「ライカの帰還」のあとがき(解説)を執筆した際に、末尾のクレジットを「編集部」としている。これは新潮社の編集部によって書かれたものですよ、という意味合いで、私の影は見えないようにしたつもりだ。だから文中に、このストーリーは実話をベースとしていて、そのモデルは、もと朝日新聞社、出版写真部部長の船山「さん」である、と親父を紹介している。

後日談になるが、新潮社版「ライカの帰還」にカットされた3話を加え、B6版で幻冬舎から刊行された「ライカの帰還・完全版」では、初めて原作は私の手によるものと、吉原さん自身が明かしてくれている。ところが解説部分をトレースするにあたって、幻冬舎はこのクレジットに私の名前を入れてしまった。息子が親父を紹介するのに船山「さん」はないだろう。言ってくれれば「父」と書き直したのに。

やがて新潮社から「ライカの帰還」が刊行された。表紙には親父から借り出したライカDⅢaが、大戦中に発行された新聞をコピーした紙に包まれた状態の写真が使われている。これは最終話でライカが主人公の手に渡るシーンを再現したもので、アイディアは例の友人であり、撮影は田中長徳さんだ。親父はこの本を手にしたとき、これまで私に一度も言ったことのない「おめでとう」という言葉をくれた。

私には、もうひとり、この本をいち早く届けたい人物がいた。大園さんによって関連会社に異動させられた、もと編集担当取締役の見山さんだ。彼の職場に赴き、これがボクの出したかった「カタチ」ですと手渡すと、しばしの間、本を見つめて「とんびの眼鏡のタイトルで、ウチから出したかったな」と呟き、私に握手を求めた。私は不覚にも大粒の涙を堪えきれなかった。