青空の大人たち(12)

大久保ゆう

 もちろん〈自由〉というのは〈無法〉のことでも〈勝手〉のことでもなく、ある意味では著作権法上の、あるいは著作権条約上の自由であったりするわけで、翻訳で言えば没後五〇年経った人を真似るのは自由ということでもあるから、少年はさながら芝居のように死人を演じて自分と故人を重ねていく。

 高校生であった少年はそのとき翻訳と演劇に打ち込んでいたわけだがそういえば翻訳や芝居に関しては生きた誰かから教わったことはなく芸事としては我流のままここまで来てしまった。それでも真似たものがあるとすればやはり死人としての本であろう。本を読み考え消化して行為に移る。

 芸を修め始めたのが同時期であったからか当人のなかでは翻訳と芝居はほとんど区別できないものとなり訳すときもやはり原文を読んだ上で演技プランを考えて演じるように書いてゆく。原著者とはどのような作家で登場人物はどのようなキャラでどのようにしゃべり出来事や事実に向き合うのか、そして語り手は何をどのようなリズムで語るのか。そこから真似び学んでいくというわけだ。

 そういうことを考えればシャーロック・ホームズはやはりひとりの先生であるだろうし思考の教師であって、演じるということで自分の身体を変容させていくのが芝居の楽しみであるとすれば、身を変えるとはまたひとつの痛みでもあって、たとえば砂漠の飛行士や黒手袋の学者牧師に付き合うことはどこまでも胸が苦しくそのまま溶けてしまいそうになる。一方でエルマーの娘は、少女から老女まで演じられたこともあって自分の芝居のなかでもかなりのびのびとできたものだと言えよう。

 こうして本を通して大人と付き合うということなら、パブリック・ドメインを一文字ずつ電子化していくという作業もまたひとつの模倣である。作家の書いた言葉を想念を、そのリズムとともに追いかけてゆくことは何よりの文芸修業となるわけだが、やはりかつて手書きの写本を作っていた人々はそうして文芸を再体験していたのだろうし、十六世紀や十七世紀の英国でお気に入りの詩を自分の手元の白紙帳へ盛んにメモしていた人たちというのも、また同じことであったのだろう。

 個人的には楠山正雄という過去の編集者・翻訳家はそうしたリズムを教えてくれた人物である。青空文庫に収録されているものは主に日本や世界の古典童話であるが、これは初期の青空文庫には子ども向けが少なかったから増やせないかと考えて自主的に進めた童話拡充計画から来るものである。入れるならば訳の良い出来のものをと探して辿り着いたのがこの名訳者で、〈かたりべのおぢ〉と自称する彼の文は口語の律動が残る素晴らしいものであった。

 デジタル人文学では電子化作業を通じた実地学習を〈メイキング・アンド・ドゥーイング〉とも言うようだが、こうした恩恵を受けたのは少年ひとりではなく、〈京大電子テクスト研究会〉の面々もまた同様だった。京都大学には大きなクスノキがあることから通称〈電楠研〉とも名乗っていたこのサークルは、青空文庫の入力校正作業をグループワークで行おうというものであった。

 大学の法経本館地下という設立当時はまだ大学紛争時の香ばしさを残す張り紙だらけであった場所が活動の本拠である。途中で改装のためプレハブに移ったり、某グローバル系(インカレ)サークルが備品や部屋に破壊の限りを尽くした新装後の場所へと戻るなどしたが(そこで私はグローバルとは暴力の謂いであるということを実地で学べたわけだが)、実はその場所ではほとんど一文字も打ったことはない。

 定期的なミーティングと進行状況の確認と底本や入力ファイルの収受をする(あと茶菓子を食べる)だけの場で、基本的には青空文庫と同じく個別に作業にあたるわけだが、どういうわけかこれが長続きし、そのあと私を含めて三人が大学院へ進みそのまま研究者となるに至っている。あとで話を聞いてみれば、その作業によって古い資料の読み方や図書館の利用方法、あるいは文書入力のスキルが手に入ったということらしく、思いつきで始めたことだったが我々は知らず知らず何かを学んでいたということでもある。

 少年もそのサークルで用いる底本を集めるために、初めて書誌というものを活用している。なかでもいちばん役に立ったのが、それまで少なかった翻訳文芸についての書誌情報を毎号収集して発表していた『翻訳と歴史』という小冊子であった。小出版社がこつこつと出しているそれをたまたま見つけた若き大学生は、喜んで取り寄せ定期講読し、それを片手に当時はまだ数多くあった京都の古書店をよく回ったものである。

 誰かが先に調べているということは、こんなにもありがたいことなのかと、身をもって感じるうち、文学の基礎研究とはまさにこういうことなのだと理解した少年は、〈ひとつの情報がしっかりとそこにあること〉の重要性もかみしめることになる。

 どんどんとアップデートされていく書誌とは、まさに成長していく大人の背を見ていくことでもあるだろう。あくまで本を通じた関係ではあるが、若い人間が使っていたということは書誌を作る側にもまた励みになったと、あとから伺った。

 書誌という地図を持って、古書店という遺跡や図書館という海を探検し、古書という宝を発見しては、電子化という虫眼鏡でそれをつぶさに調べ、翻訳・翻案という技(あるいは魔法)をもってそのレプリカを作り再現したり甦らせたりする。

 それはまさに青空の下での冒険であって、本から学ぶべき過去の大人を見つけるということでもある。少年は古来から探検したがる生き物であるが、別に実際の遙かな外へ飛び出さずとも、その冒険自体は本の世界だけでじゅうぶん可能である。パブリック・ドメインとは広大な荒野でもあり大海原でもあり、飛び込むにはとりあえずの勇気さえあれば良いというわけで、あとは出会うはずの数多くの大人が道を示したり背中を見せたりと何とかしてくれるものなのである。

 もしその冒険に敵役がいるとすれば、その比喩的構図のなかでは、そうしたパブリック・ドメインを隠したり独り占めにしたりしようとする人たちになるわけだが、今の世の中を考えてみるに、さて。