家族がみんな出掛けてしまった日曜日。まだ誰も帰ってこないひとりの夕暮れに、ソファに寝転がって石田千の『きんぴら ふねふね』(平凡社/2009年)を読む。石田千はいいなあ。『きんぴら ふねふね』は、「小説すばる」に2005年4月から2008年3月まで「さしむかい よこならび」の題名で連載した作品を中心に編んだ、食べ物にまつわるエッセイ集だ。
母の手作りドレッシングに欠かせなかった「サラダ酢」。中学生の頃飼っていた猫のチャーさんが大好きだった塩ポッキー。りんごとヨーグルトと小麦粉でつくる簡単ケーキぽんぽん。石田千の心に大切にしまわれている”ごちそう”は、ある年代の人にとってはありふれたもので、でも今はどこかに消えてしまった懐かしくてせつない風味がする。
「彼岸列車」という1篇で、猫のチャーさんひとりを乗せて電車が走り去ってしまったように、「おいしいね」といっしょに笑っていた友だちも自分も、時と共に過ぎ去って今はもう居ない。
夏休みにおばあちゃんの家に泊まりに行く。親戚も訪ねてきたお昼、「ななめむかいのそばやさん」に、おばあさんが歩いて中華そばをたのみに行く。煮干しのダシの中華そばは、いなかでしか味わえない特別の味がする。子どもの石田は、家にいる兄に夜電話して、うらやましがらせたりする。お客さんのために歩いて近所の店に店屋物を注文しに行くというのは、私の母もやっていたなーと懐かしくなる。今はあまり見かけなくなったおもてなしのしぐさ。のんびりと長かった夏休み。石田千が子どもの目でみつめていた風景には、私にも思い当たるものがいくつもある。当然のように受け取っていた人の親切を、今になってありがたいことだったとしみじみ思いだす。
食べ物への嗜好が、思いがけずに自分自身や相手を炙り出してしまう、その怖さについて書かれていることも、このエッセイ集の魅力だ。できごとを見つめる石田のまなざしは、時に鋭い。菜っ葉の煮つけのほろ苦さをきっかけに、好きな人と離れてしまったいきさつを語る「青菜惜春」は絶品だ。
あとがきに「飲み食いのたび、だれかを想い出す。ひとりで食べているときもだれかとむかいあっている。」「ひとり暮らしは、食べたい時に食べたいものを作ってよろしい。長くつづくと、ひとりよがりで、思いやりに欠ける味となる。ときおりのお客は、かたくなになる頭と舌にとって、ほんとうにありがたい。」という印象的な文章がある。
「ライオン」という1篇。特別な人と、さしむかいになるために出かける誕生日。読み進んでいくと、どうやら「さしむかい」の時間は、石田ひとりの胸のうちのできごとだとわかってくる。『きんぴら ふねふね』では、そんな不思議な時間についても語られていて、唸ってしまった。
さあ。本を閉じて、家族にとうもろこしでも茹でよう。