長い道のり(2)

小泉英政

対応を変えたのはぼくの方からだった。千葉県の説明によると、仮補償のまま据え置いてきたのは、千葉県だけの判断によるものでなく、国、空港会社、そして、警察と、そのつど協議しながら対応してきたとのことだ。そうであるならば、千葉県のみを責めるわけにはいかない。収用委員会の審理を無理に求めても、空港問題は扱わないとの条件で委員になった人たちが、約束違反だと辞任される可能性がある。

県が43年間、放置してきたことの非を認めるならば、こちら側は、収用委員会での審査にこだわらなくてもいいのではないか。そして、最終的に、よねさんの生活権が認められれば、こちら側の目的は達せられるのではないか、そう考えるようになった。

後日、その考えを伝え、そのことを踏まえた見解を、国、県、空港会社が明らかにすれば、話し合いで、よねさんの補償問題を解決してもいいと提案した。

そして二回目の会合が開かれたのだが、県は非を認めるどころか、「やむを得なかった」との説明に、もう一つの論点を加えてきた。それによると、千葉県は代執行以後、代執行が引き起こしたことの重大性に気づき、国と空港会社に対し、話し合いで空港問題を解決するよう求め、国と空港会社もそれに同意したという新聞記事を引用し、よって県は、話し合いの推移を見守る立場にあったので、収用委員会を開かないできたのだと説明した。

代執行以後、千葉県が話し合い解決の提案をしたとの報道は、ぼくも耳にしていた。しかし、代執行以前に、そういう態度を示すのであればまだしも、自分たちの体を張って、農地や暮らしを守ろうとする農民たちの抵抗を、悪い代官さながらに、暴力的に破壊したその後に、話し合い解決を持ちだしても、農民たちにとっては、「何をいまさら」との反発を招くだけだった。もうすぐ50年になろうとする空港問題の長い歴史のなかの、忘れ去られていた新聞記事を掘り起こしてきて、「やむを得なかった」との説をなんとか維持しようとする県の態度に、ぼくは愕然とした。代執行そのものが、50年にも渡る空港問題の大きな要因になっており、よねさんの問題は、その象徴的な出来事なのに、そのことにまともに向きあおうとしないその姿勢にぼくは驚いた。

数カ月後、提出された県の見解の素案は、やはり、言い訳に終始していた。遺憾との言葉も見られたが、それは43年間放置してきたことを遺憾とするものではなく、ぼくたちを長い間不安定な立場に置いていたことを遺憾とするものだった。その素案はとうてい呑めるものではなかった。大谷恭子弁護士が、ズバズバと切った修案を送り返すと、仲介してくれていた空港会社の担当者も、これを橋渡しするわけにはいかないと言った。今まで、その担当者の人が、根気よく、県都の調整に当たってくれていたのに、彼がこれ以上、その任に当たれないとの返答に、大谷弁護士も、解決の道が遠のいたと感じた。

それからじりじりと時間が経って、県からの連絡で、次なる素案ができたという。お会いすると、大谷さんから送り返した修案に沿ったもの、つまりは言い訳めいたものを削り取ったものになってはいたが、遺憾の言葉の使い道は同じだった。

どうしてわかってもらえないのか、ぼくたちの側に疲労感が出て来た。弁護士の側にも、それは感じられた。これ以上の見解を引き出すのは無理なのか、もう少し時間を置くべきか、あれこれとぎりぎりの選択が迫られた。そこで「諦めるな」と、ぼくの内側から、ぼくの背中を強く押してくる力みたいなものが感じられ、それはもしかしたらよねさんの魂のようなおのだったのかも、と、後から振り返る。

それまで、県の見解に求めたものは、最低限、43年間放置したことに帯する遺憾の意が示されればいいと考えていた。しかし、ここまできて考えが変わった。さらに徹底した見解、よねさんへの代執行に対して、どう考えるのか、生活権の問題について、どう考えるのか、43年間放置についてどう考えるのか、その見解をあと数週間(年末までに)で出してくださいと電話で伝えた。

どうして、最終的な局面で、見解の全面的な検討を求めたのか。それは今まで、こちら側の主張をきちんとしていなかった、つまり、43年間放置したことの反省という一点に絞ったがゆえに、逆にこちら側の気持が、充分に伝わっていないのではないかと感じたからだ。

県に伝えた内容を、弁護士、そして、空港会社の担当者に話した。その人は「それを県が呑むでしょうか」と言った。ぼくは、「県は話し合いでの解決を求めていると思うので、大丈夫だと思います」と言ったが、自信があったわけではなかった。